日曜日の赤坂での仕事の帰り、銀座に出た。
銀座に出たといふのも大仰な言ひ方だが、リタイアして以来、銀座は日常の生活ルートの場所ではない。何十年の馴染みの人形町は、今でも仕事のあと、日が暮れてのちの回遊ルートだが、銀座は必要がなければ行かなくても不便はないエリアになつた。
帽子を買はうと思つた。銀座二丁目の「トラヤ」である。間口は狭いがサイズの取り揃へは申し分がなく、帽子をかぶるやうになつて二十年、中折れソフト、ベレー、野球帽、ハンティングなど全部ここで買ふ。季節が変はると、この店に立ち寄る。
店員が特に愛想がいいわけでもない。第一、女性の店員は一人もゐない。口髭を蓄へた店長らしき初老の男は、いかにも「銀座の老舗店」のマスターといふ感じで、一見さんは近寄りがたいだらう。
間口の狭いウインドウをのぞく。一等歩道寄りに陳列されてゐるブルーのハンティングに目が行つた。昨夏も黒い麻のハンティングだつたから、今年は何にするか決めてゐなかつたが、ふと見ただけで、その水色に赤、橙、茶のチェックのハンティングが気に入つた。
ぶら下がつてゐる値札をのぞく。やや予算オーヴァーだが、我慢し難いほどではない。入口の硝子戸を押さうとすると、内側に「本日お休み」の札が掛けてある。
さういへば日曜日に行つたのは初めてだつた。僕の中ではいつも営業してゐるお店といふ印象だつたが、銀座が冷やかし客であふれる日曜日は休んでゐたのだ。
翌日、あらためて出掛けて行き購入した。髭の男にサイズを告げ、「これを」と言ふまで一分ほど。男の方があわててゐた。
スエーデンのヴィーゲンスといふ会社の帽子である。どのジャケット、どのTシャツだと映りがいいか、最初はどのワインバーへかぶつて行かうか、これをかぶって最初に会ふのはだれがいいかなーーたかが帽子一つで幼いといへば幼いが、どんなことでも胸おどらせるといふのは楽しい。
胸おどらせるーー。
たとへば、友人からまだ飲んだことのない秋田の純米酒を贈つていただいた。日本酒度12度とかなりな辛口である。どんな味だらう。肴は何と合はせようか。
たとへば、初めてのバーに入つて、ボーイがお絞りと水を持つてくる。それから数秒間、お互ひの品定めに緊張する。マティーニのドライを頼んでみるか。この男に巧みなステアができるかなあ。この男とはどんな会話が可能かなあ。
かつては、期待や刺激は何をしなくとも向うからやつて来た。楽しみは向うからやつて来た。いまは、自分の方から期待や刺激を求めに行かなければ、じつとしてゐたら楽しみは起きない。
