半年ほど前に近所に建つた高層マンションの駐車場が一向に埋まらない。賃貸マンションのやうだが、人の出入りから見て、部屋はほとんど入居した気配なのに、番号ごとに白線で仕切られた広い駐車場の、手前の三分の一ほどに車の姿がない。
 
 地域の事情通に聞くと、予想したよりマイカーを持たない入居者が多く、マンション側は駐車場を空けておくわけにもいかないので、一般用の駐車場として貸したい腹だといふ。
 
 駅に近い便利なところなので、入居者の多くは比較的若いサラリーマンらしい。若者の間で「マイカー離れ」が進行してゐるといふ話は数年前から聞いてゐたが、折からの不況の影響で、その傾向が拡大してゐるのか。
 
 僕は年甲斐もなくスピード狂である。
 高速道路に乗つたら、原則追ひ越し車線をキープする。大きな声では言へないけれど、時速140キロにアクセルペダルを固定して、前の車がどいてくれたら追ひ抜く。
 
 凄絶な爆音を響かせて後ろに迫るジープでもあれば一瞬左に寄つて譲ることはあるが、すぐまた右車線に戻り、140キロを維持する。スピードメーターは260キロまである。
 
 警察に捕まるのはバカバカしいので、脇の家人には、①追ひ抜く車が通過県のナンバーかどうか②乗つてゐるのは二人かどうか③その二人はジャンパー姿でないかーーのチェックを頼む。
 
 この三項目のうち、一つでも違へばそれはスピード取り締まりのパトカーではない。逆に、三つとも該当したらまづ覆面パトカーと見て間違ひない。
 
 二十歳すぎに免許を取つて以来、いまだ九州は自走してゐないが、北海道も四国も東北地方も山陰もすべて何回か走り回つた。趣味を訊かれて「車」といふのも恥づかしいので隠すが、実は車とワイン(なんといふ矛盾!)が一番の趣味である。
 
 観光地へ行つても、確かにこのところ「わ」ナンバーのレンタカーが増えた。ガソリン代、維持費、駐車場代、車検経費等を考へたら、たまにしか乗らないマイカーを所有することは不合理ではあるだらう。
 
 いま、若い人の生活意識は激しく変化してゐると言ふ評論家は多い。テレビを見ない、海外旅行に行かない、新聞を読まない、外で飲んだり食べたりしない、おしやれをしない、セックスしない、他人と必要以上に付き合はない……。
 
 空きつぱなしの駐車場をながめて嘆息するマンション経営者のやうな姿が、あちこちで見られるやうになるかもしれない。
 
 三十代、独身の娘が携帯で話をしてゐる。
 「びつくりしちやつた。暫くぶりだなと思つて何気に電話したら、彼女、入院してるつて言ふんだもの」
 「私もテレビのコマーシャル見て、ソッコー注文した。思つたより美味しかつたわ」
 「ねえ、どうでもいいけど、それ、ふだんあなたが言つてることと真逆ぢやない?」
 
 町のスタバなどの、隣りのテーブルの若者たちの会話ならさほど驚かなくなつたが、自分の娘がごく当たり前にかういふ言葉を遣つてゐるのを耳にすると、正直なところあわてる。
 
 僕が普通に用ゐる用語では、
 何気(なにげ)に=何気なく
 ソッコー(速攻?速効?)=すぐ
 真逆(まぎやく)=正反対
 である。
 
 ことばは時代とともに変化する。1000年前の「源氏物語」を現代人は読めないし、まあ話をそれほどオーヴァーにしなくとも、明治時代の夏目漱石や森鴎外の小説も読むのに苦労する。
 
 もちろん、時代とともに変化するのはことばだけではない。ファッションは言ふに及ばず、食べ物だつて風習だつて意思の伝達手段だつて正義だつて、時の経過とともに大きく変はる。
 
 だから僕は、ことばの変貌にはわりあひ寛大である。「日本語の乱れ」などと言つて顔をしかめるのは好みではない。
 
 「なぜ、あなたは歴史的仮名遣ひを遣ふのですか」
 学生時代から問はれ続けてきたが、笑つて「趣味です」と答へることにしてゐる。
 
 旧仮名の方が語源に忠実だとか、古来の発音に沿つてゐるとか、字面が美しいとか、日本の伝統文化の一つだとか、僕なりに理屈はあるものの、昭和21年(1946)、国が「現代仮名遣い」を教育現場に強制的に押し付けてから、旧仮名は文字通り「旧」なものであり、時代は「現代仮名遣い」を正統なものとしたのである。
 
 政治体制を昔の藩閥制に戻せと言つてみても滑稽なのと同じやうに、時代が求めた変はりやうといふのは仕方ない。それが人の世の習ひだ。
 
 もちろん、ことばはどう遣はうと本人の自由である。意思の伝達がやや不自由になるくらゐで、古い言葉を遣つても処罰されるわけではない。
 
 しかし、最近、少々不安になつてきたのも事実で、時代によることばの変化を自分で察知できなくなつたらどうしよう、と焦る。
 
 町で「何気に」聞いたことばが意味不明だつたら、家に帰つて(広辞苑には出てゐないので)パソコンで「ソッコー」調べるが、それが従来の自分の語意識と「真逆」だつたらどうしよう。
 世の中、夏休みの真つ最中だが、「オフタイムには何をしてますか」と聞かれることがある。いちばん答へに窮する質問である。
 
 趣味は何ですか、と問はれたのなら答へやうもある。ワイン、ドライブ旅行、散歩などと正直に答へてもいいし、「茶道を少々」とか「この頃は庭の手入れなどを」「ボーッとしてゐること」なんて少し気取つた回答の仕方もある。
 
 「オフタイムには?」といふ設問が困る。オフタイムはつまりオンタイムの逆だから、自由時間、仕事をしてゐない時間といふことだらうが、あらためて「オフタイムに何を」と訊かれると、どう答へたら正確なのか分からない。
 
 といふのも、いまの僕は、自由時間、仕事をしてゐない時間がほとんど全てなのだ。
 月に4日、カルチャーセンターで講師をする時間、たまに講演会で話をする時間、頼まれた雑文を書く時間などは、まあ「仕事の時間」「オン」と言つていいかもしれない。
 
 しかし毎日、書斎で売れない小説を書いてゐる時間はどうか。報酬が得られる保証はないのだから「オン」と言へるかどうか。また、それに関連して本や資料を読む時間も「オン」と言つていいものかどうか。
 
 要するに、一日の大半はオフタイムなのである。
 何の予定もない日は、朝起きて、顔を洗つて食事をして、珈琲を飲んで、2階の書斎に上がる。午後は昼飯のあと少しテレビを見て、書斎に上がつてパソコンを相手にしたりワードで物を書いたりし、夕方から散歩に出て、ワインを飲み珈琲を飲み、夜はーー。
 
 「オフタイムに何を?」と訊かれたら、これを全部答へなければならなくなる。
 待てよ、と思ふ。オフタイムの反対であるオンタイムを、「義務で仕事をする時間」「生きるためにしなければならないことをする時間」と定義するなら、今の僕にとつては、朝起きて、顔を洗つて食事をして、珈琲を飲んで……といふ日常生活の時間こそがまさに「オン」なのではないか。
 
 眠つて、起きて、歯を磨いて、風呂に入つて、髪を洗つて、爪を切つて、といふ生活作業こそが、義務的で、「生きるためにしなければならないこと」なのだから、これこそ「オンタイム」と言ふべきだらう。
 
 当然、「オフタイム」は、カルチャー講師とか講演とか雑文書きの時間になる。オフとオンが逆転したのである。
 
 「ところで、先生はオフタイムはどう過ごされますか」
 講演会のあと、主催者の人とお茶を飲んでゐるとき訊かれたら、かう答へることにしよう。
 「僕は今がオフタイムです。オフタイムは仕事をしてます」