「ねえ、こんど予約した食事会なんだけど、ひとり我儘なのがゐてね。肉料理はサーロインぢやないとダメだといふんだ」
昔からの売れない作家仲間の食事会(どちらかといへばワイン会といふはうが正確なのだが)を開くことになり、幹事役をやることになつた。
リタイア後はじめた午後の散歩で、もう3年ほど通つてゐるワイン屋を会場にすることに決め、会食のメニューをみて、忘年会を兼ねるのだから少々豪勢にと、前菜からスープ、魚料理、箸休め、肉料理、デザート、のフルコースを頼んだ。
売れない作家とはいへ、ひとりウルサイのがゐる。ワインはイタリア物は嫌ひ、肉はフィレ肉は受け付けない。脂身がないと承知しない。
コースメニューの肉料理は、フィレステーキと書いてある。オーナーシェフに掛け合つてみた。
「もちろん、OKです。そのお客さんだけサーロインステーキに変更しませう。ーーイヤだなあ、このくらゐのことは我儘でも何でもないです。知らぬ仲でもないし、どしどし注文を付けてくださいよ」
毎週2、3回は寄るだらうか。ハウスワインの赤と白を飲んで、1時間ほどくつろぐ。
実は今の生活の中で、この時間が実に貴重で、小説の構想とか、注文の来た雑文の仕様とか、講演会のテーマ、次はどこへドライブに行くか、来週は誰と会ふかーーつまり、当面の行動予定をここで立てるのだ。第二の書斎である。
3年も通ふうちに、店を介しての友人もできた。政治家の卵もゐる。売れない画家もゐる。ある会社の専務で、来春の役員定年を前に、退職後どう生きたらいいのか不安に苛まれてゐるおやぢがゐる。どういふわけか、女性の友達はできない。
店の概要も把握できた。
当面、何がこの店の悩みか。客はまあまあ来るのに、アルバイトの店員が思ふやうに集まらない。食材の仕入れの実権を握つてゐるのは、実は誰か。どのボーイが優秀で、どの女子店員が鈍いか。
ワインがひねてゐた場合、誰にクレームをつけるのが最も効果的か。客の中で上客はだれで、だれが煙たがれてゐるか。
このくらゐのことが読めると、その店は実に居心地が良くなる。店が混み合つて来ても、4人席を一人で占領してゐる僕に席を移れとは絶対に言つて来ない。もつとも、さういふ場合はこちらで先に立ち上がるけれど。
昔から、僕は馴染みの飲み屋をつくる天才である。その奥義はひとつ。同じ店に少なくとも3年は足繁く通ふことだ。
かうして「いい感じ」の店ができるまでは、店の片隅で、ひたすら忍従、我慢の日々である。何事も、我慢がないと事は成就しないーーなーんてエラサウに言ふほどのことではない。
