どうも息苦しい。言ひたいことが思ふやうに言ひにくい。常に何かに遠慮して発言しなければならない。さう感じるのは僕だけでせうか。
一年前の大震災と原子力発電所の事故以来、日本社会に新たなタブーが生まれつつあるやうに思ひます。
第二次世界大戦に敗れたあとの日本を覆つたタブーとどこか似てゐます。「心でさう思つても、言つてはならないこと」つまり、社会にいくつかの禁忌が広まりつつあります。
その第一は、「安全はすべてに優先、安全が最高の価値である」といふ思想です。
さうでせうか。人間には、安全より優先されるべき価値があるのでないでせうか。人としての徳目です。たとへば、身の安全のためなら、正義とか勇気とか節操などといふやうな、人としての基本的な生き方まで犠牲にしていいのでせうか。
地震や津波から身を守るために逃げる、さうしてわが身の「安全」を図ることだけがどうして最高の目標なのか。目の前を津波に流されていく人に手を差し伸べたものの遂に救助できずに命を落とした人と、一目散に裏山に駆け上つた人のどちらが推奨されるべきか。震災後の気風は、「とにかく自分の命を第一にして逃げろ」です。
そこから第二のタブーが生まれてゐます。「安全を図ることに限界があつてはならない」といふことです。大震災で多くの犠牲者が出た反省から、「安全」を期すためなら、限界を設けてはならないといふ風潮が日本を席巻してゐます。
人の命に限界があるやうに、何事にも限度があるといふのは人間生活の基本的な常識であるはずです。「安全」もさうです。限度のない「安全対策」などありうるはずがない。
ところが大震災後、「想定外」は許されません。いかなる危険も「想定」の内でなければならないといふ考へ方が大手を振つて歩いてゐます。人間は万能ではない。想定できない領域も大きいのです。
第三のタブーは、「絆」の氾濫です。
人間社会において「絆」は大事なことです。他人と手をつなぎ、励まし合ひながら生きて行くことは欠かせない要素です。
しかし、最近、「絆」といふことばはあきらかに誤用もしくは転用されてゐます。「絆」は必要だが、「安全」思想と同様に、それはすべてに優先する考へ方ではない。
このところ何かにつけて、最後になると「これが目に入らぬか!」といふ具合に「絆」の印籠が振りかざされるのはをかしなことです。
誤解のないやうに断つておきますが、僕は被災地の方々や復興支援を冷やかしてゐるのではありません。国全体に絶対のタブーが蔓延し、それが不可侵の価値に祭り上げられたとき何が起きるかは、いふまでもない。半世紀前、作られた「絶対の価値」のために戦争に突入した過去を持つ国民性なのです。
その意味で、この三つのタブーに一番毒されてゐるのが政界であることは要注意です。
