僕が二本目の銚子に手をつけたとき、スーツ姿の五十男が入つて来て、カウンター席のはじに腰かけた。はじとはいつてもカウンターには七人席しかない。ふだんほとんどが常連客なのだが、見かけたことのない男だ。
「いらつしやいませ」
人形町交差点にちかい路地の小料理屋で、若草色のきものを着た女将が注文を取りに行く。美人とは言ひ難いが客あしらひのうまい女将で、当然のことながら初めての客には愛想をふりまく。
男はビールを頼み、目の前にある和紙を綴ぢた品書きをながめ始めた。すぐには料理が決まらない。
「それではとりあへずビールをお持ちします」
女将がさがると、男はスーツの内ポケットに手をやつて黒い手帳を取り出した。料理を決めるより先に、何か急な用事を思ひ出したのだらう。まだ四月だといふのに手帳の角が擦り切れてゐる。
男が手帳を見てゐたのはほんの数秒だつた。また品書きに目を転じて、付き出し、刺身、焼き物、煮物と順にめくつてゐる。
ビールが来た。「どうぞ」と女将が細身のグラスに注ぐ。「どうも」と客は受けて一口飲んだ。そこで男は、また内ポケットから手帳を出した。女将は、
「ご注文がお決まりになりましたころ、また参ります」
と奥へ引つ込んだ。
男はこんどはやや長い時間手帳をみつめてゐた。しきりにページを変へたかと思ふと、手を止めて、胸のポケットにさしてあつたボールペンで何か書きこんだ。手帳とボールペンをスーツに納め、またビールを飲む。ふいに横にゐる僕の方に顔を向けた。
あわてて視線を自分の盃に移す。男はもう一度手帳を取り出した。なんとも落ち着かない。
その客は結局ビール一本で席を立つた。来てから十五分もゐなかつたらう。千円札と小銭を受け取つて客を送り出すと、女将が僕のところへ酌にきた。
「初めてのお客さん?」
僕が訊く。
「ええ、間違つて入つて来ちやつたつて感じね」
女将は他の客に聞こえないやうにささやいた。
「ビール一本とは、よほど居心地が悪かつたのかな」
「私には最初から分かつてゐました。さういふサインを出されてましたから」
「サイン?」
この道三十年の女将が言ふには、一見の客がひとりで来店して手持無沙汰になつたとき、手帳をひらいて時間をつぶさうとするやうな客はまず馴染み客にはならない。
「手帳つて、男性にとつては仕事の延長でしよ。飲み屋に来て、そんなものを見るお客さまつて、ちよつと無粋よね。こんなところで忙しぶりしてみせて何になるの、つて感じ。つまり、さういふお客さまはかういふ雰囲気に親しめないのよ」
「ぢやあ、手持無沙汰になったらどうすれば粋なのかな」
夜の街の奥義を聞くやうな気持ちで尋ねる。
「粋ねえ。さう言はれるとーーひと口飲まれて、茫然とした眼差しで、ゆつたりと、いかにも今の時間を楽しまれてる、つて感じのお客さまかなあ」
僕も現役のころは、飲み屋でよく手帳やメモ帳を点検した。粋であることは難しい。
