学生時代に一緒に同人誌をやつてゐた男が小説本を出版し、郵送で寄贈本が届きました。「忌憚ないご感想を」と付箋がはさんであつたので、「忌憚ない」感想をメールで送りました。
 
 「新聞記者などといふヤクザ稼業を長年やつてゐるうちに、かなり人柄が悪くなつたのですね」
 
 メールの返信で、彼は明らかに怒つてゐます。「忌憚ない感想を」とあるから思ふまま感じるままを書いたのですが、五十年近くの時を経て、「人柄が悪くなつた」と評されました。
 
 事実、さうかもしれません。学生のころの甘さや優しさや、他人に対する寛厚な気持ちは薄れてゐるのかもしれません。しかし、昔の同人誌仲間に「人柄」をどうかう言はれるとは予想もしませんでした。
 
 僕の感想はメールで200字ほどです。400字詰め原稿用紙400枚ほどはある小説の読後感としてはいささか短い。短いから誤解を生じた。
 
 「作者の溢れんばかりの意思が、必ずしも読む側に伝はるかどうか首をかしげざるを得ないところもありました」
 
 これで50字、感想文の四分の一です。メールの結びではきちんと、年のわりに感受性が枯れてゐないことや労作を称へてゐるのですが、作者にはこの部分だけが心に響いたのでせう。
 
 ツイッターはもちろん、フェイスブックもメールも概して短文ゆゑに、十全に意思の伝達が果たせないきらひがあります。事務連絡にはいいですが、微妙な言葉のニュアンスは伝へきれません。
 
 その点、やや長文がゆるされるブログは、誤解をフォローできるところがあります。反面、ブログの怖いところは、長文のために、「文は人なり」が露骨に出ることです。
 
 その文章の言ひたいこと、つまり論旨はいかやうにも誤魔化せます。筆者が思つてゐないことでも平気で書けます。しかし、文章の背後にゐる筆者の性格は誤魔化せません。
 
 僕は文章から筆者の人となりを読み取るとき、内々(と打ち明けてしまヘば「内々」ではないけれど)三つの着眼点を設けてゐます。
 
 第一は、文章の呼吸です。怒りやすいタイプか、皮肉屋か、天然か、意地悪か、のんびり屋か、愛すべき人間か……だいたい推察が利きます。
 
 第二は、文章のなかに出てくる語彙によつて、おほよその察しがつく。好きな語彙はしばしば登場しますから、そこにその人の性癖が浮き出ます。
 
 第三は、語尾の結び方です。たとへば、「--であります」と書く人と、「--です」と書く人では、世間に対する向き合ひ方、構へ方があきらかに異なります。
 
 ぢやあ具体的に、文章の呼吸がどういふ人はどんな人間で、どんな語彙を好む人はどんな人間なのかと聞かれたら、それはナイショです。
 
 ーーなんて逃げるタイプは、概して悪趣味で、性格が良くない。いや、良くない場合が多いやうだーーなんてさらに曖昧にする人は、何につけ自信のない人です。
 
 夢のなかで、手の綺麗な女性とデートした。
 その女性の手が並はづれて美しいのに気づいたのは、古風なシャンデリアのさがるフレンチレストランでランチをとり始めてすぐだつた。
 
 女性のフォークを持つ左手の甲が、動きにつれてまばゆく光る。清流から釣りあげられた直後の鮎のやうに、透明感のある皮膚が白い皿の上で跳びはねた。
 
 夢のなかの登場人物はだいたいさうだが、女性の年齢、境遇、ぼくとの関係などは分明でない。ぼくたちは突然、ふたりでランチを食べてゐた。
 
 耳たぶから頬へかけてのラインが優しくなだらかで、ほつそりとした顎と形のいい鼻のあたりの肌にも若々しい艶があるが、なんといつても人目を惹くのは両手の優美さである。
 
 長い指にも白い手首にも、ささくれや黒ずみや傷がなく、少女の手のやうに穢れのない清澄さがある。触れれば吸ひついて来さうな弾力が感じられる。
 
 ランチを終へて外に出ると雨だつた。
 「少し歩きますか」
 ぼくは大型の黒傘を彼女にさし掛ける。そこがどこだか分からないのだが、まだ桜の花が残つてゐた。
 
 相合傘だから身を寄せ合はないと濡れる。ぼくは女性の腕を取つて僕の腕にからませる。
 「こんなところを人に見られたら……」
 と彼女は笑つた。
 
 道沿ひの美術館で18世紀フランスの画家の展覧会を開催してゐた。ぼくが促し、ふたりはそこに入つた。
 
 白亜の教会が建つ断崖絶壁の下の河原で、女たちが洗濯をしてゐる絵があつた。ぼくはつい女たちの手を注視した。
 
 「失礼なことをお聞きしますが、あなたはそんな綺麗な手をしてゐて、洗濯や炊事はやつたことがないでせう」
 少し立ち入つたことを質問する。彼女は
 「いえ、普通にやつてゐます」
 と言下に否定した。
 
 「女性がこんな手をしてゐるのはお嫌ひですか」
 「いや、そんなことはないけど、水仕事をしてゐる人の手ではないから」
 「かういふ手をした女とは結婚したくないですか」
 彼女も立ち入つたことを聞いてきた。
 「さうですね」
 ぼくも言下に答へた。
 
 この美しい手が目の前で、家事にまみれて汚れて行くのは見たくないと思つたからだが、誤解されたかもしれないと不安になつた。
 
 激しい感情がぼくに湧いて、その美しい手を握りたくなつた。手を伸ばさうとしたところで目が覚めた。
 
 
 少し酔つてゐた。午後の散歩途中のワイン2杯と、夕食のときの芋焼酎のせゐだ。
 
 書斎に上がつてパソコンにむかふ。その日、書きあげたばかりの120枚の小説を何気なくひらいた。中年の女性占ひ師におぼれていく七十男の小説で、タイトルの「教祖さま」の「後半」55枚のアイコンをクリックしたはずなのに、画面には別の「構成」が出てゐる。A4一枚にまとめた小説の粗筋の覚書である。
 
 もう一度、画面を戻して「教祖さま後半」をクリックする。やはり、同じ「構成」が出る。をかしいなと思つて、また試みるが結果は同じだ。
 
 やや真剣になつた。本来の「構成」のアイコンをクリックする。もちろん「構成」が出る。ここからやや慌てて、「ごみ箱」を開いたり、「教祖さま前半」をクリックするが、どこにも「後半」の本文はない。
 
 どうやら酔つてふらふらした頭で、「教祖さま後半」の本文を画面に表示しながら、保存するときに「構成」の名前で上書き保存してしまつたらしい。さういへばその日、「構成」の中の一行を「教祖さま後半」の本文に張り付けた記憶がある。
 
 リカバリー機能を思ひ出し、パソコン全体を「前日」の状態に「復元」する措置をとつた。しばらく待たされた挙句、画面には「何らかの要因で復元に失敗しました」とのつれない表示が出た。
 
  この小説はめづらしく期限付きの原稿だつた。カレンダーを見ると、あと十日だ。毎日平均6枚書けば間に合ふ。とにかくもう一度書くしかない。
 
 現役のころ、ある晩、飲んでゐた人形町から急遽社に戻つて、「金丸信逮捕」の原稿を打ちながら、同僚が取つてくれた政治家の談話を執筆途中の記事に合体させようとして、「記事」を「談話」に上書き保存してしまつた痛恨の過去を思ひ出した。
 
 記事は数十行、文字数にして1000字ほどだからすぐ打ち直せたが、小説の原稿用紙55枚はもう一度書くとなるとなんともシンドイ。
 
 「構成」を見ながら、どうにかして思ひ出さうとするが、僕は物を書くときは瞬間勝負で、発想着想空想、リズム、呼吸、ボキャブラリー……と、非才を総動員して書くタイプなので、「消滅した部分ではここはどう描写したか」がなかなか思ひ出せない。
 
 始末が悪いのは、消滅した部分を書いたのがさう遠い過去ではないから、同じやうな場面を書かうとすると、待てよ、この表現はどこかで使つたぞ、この語彙は最近使用した気がするぞ、などと記憶が断続的によみがへつて来て、物書きのプライドをちくちくと刺し、書く作業の邪魔をする。
 
 途中から、前に書いたのを思ひ出さうとしたり、なぞるのはやめた。まつたく新しい小説を書くつもりで書き始めた。この方が筆は進む。それでも時々、「消滅した部分はもつと多角的に書いてゐたな」とか「前に書いた物の方が良かつたんぢやないか」などといふ疑心が生じる。
 
 「このところすぐ書斎に上がりますね。忙しさうだし、なんか浮かない顔してる。何かあつたの?」
 
 三日か四日たつたころ、家人に気付かれた。パソコンをやらない家人に上書き保存のからくりを説明するのは面倒だし、酔つて犯した失敗だから言ひたくもない。
 
 「いや、たいしたことぢやない」
 精一杯の演技をして笑つた。綺麗な笑顔にはならなかつたらう。これこそが「苦笑」といふものか。
 
 人間関係ではときに涙も便利な役を果たすが、笑顔も便利である。