「私本当に人間として、もう男系とかなんか、そういう言葉使うのも嫌!なにが男系よ!」
門田氏は、「皇統という唯一のルールによって脈々と2000年続いてきた」と「皇統」を持ち出して議論を突破しようとするが、田嶋氏の時間性は、神武天皇以前に在る。つまり、門田氏のたかが2000年の「皇統」に対して、田嶋氏は一万年続いたと言われる、女性中心の大家族と平等主義の縄文時代の女性中心社会の幾何を描いている。
田嶋氏のその徹底した女性史観による発言に対して、リアリストたちは、ごく私的な出来事と中間にある情報を大きく省略することでしか描けなくなった、というのが「ジョセー系」と呼ばれる論理の概略であり、田嶋氏は、他論客からのカットインをに対しては、周りの空気など気にせず、跳ね返す声でたった一人でも堂々と渡り合う「怒れるフェミニスト」として広く認知されている。しかし、このような論争をよく聞いていると、人の話を聞かない”で怒鳴り散らしていたのが、主に門田隆将氏や竹田恒泰氏ら男性の方であり、田嶋氏は自分から声を荒げることもなく、「うん、うん」と聞き、「冷静で、論理的に丁寧に打ち返している場合が多い。
田嶋氏は決して「美人」などではなく、どちらかと言えば「ブサイク」の側の女性で、時代的にも幼少期より様々な不条理を経験してきたはずだ。この国のテレビを中心とした、マスコミメディアの目は、若く美しく、物言わぬ女性を好む。ゆえに、その真逆の存在、堂々と意見する若くないし、美しくもない女性が映し出されたとき、テレビの前の視聴者の多くは、違和感や不快感を抱く。堂々と自分の意見を話す若くも、美しくもない田嶋氏の姿は、電波に乗った瞬間、いかんともしがたくネガティブな印象に自動変換されてしまう。発言の正当性とはまったく関係なく。そこへ、門田隆将氏や竹田恒泰氏らが個人攻撃のように彼女を罵倒すれば、世論は完璧に仕上がるだろう。バッシングのはじまりだ。
テレビでは、女性が男性、とくに中高年男性の言うことに意見や反論をすることは、タブーだ。女性はニコニコ笑顔で場の雰囲気を和らげることを求められる。言われたことはなんでもこなす従順さを求められる。もし意見があるなら、思いっきり下手に出て、可愛らしい声色にちょっと困った様子で、おうかがいを立てなくてはけない。間違っても人前で男性を論破してはいけない。それは男性がもっとも大事にしているもの、メンツを潰すような真似だからだ。衆人が目にするテレビというメディアで、男と対等に議論を交わす田嶋氏は危険人物だが、議論の盛り上がりには欠かせないキャラクターとして消費される。それでも、視聴率に大きく寄与している反面、田嶋氏が議論に勝利するようなことは決してあってはならないのである。
無意識にテレビを見ているだけで、男性の知覚でもって情報はインプットされる。男らしいイデオロギーが見る人に植え付けられていく。老若男女問わず。これが女性が女性差別を内面化してしまう仕組みである。
「私本当に人間として、もう男系とかなんか、そういう言葉使うのも嫌!なにが男系よ!」
まるで、子どもの発言である。
20歳の環境活動家グレタは、マイクを持ち「炭素はまだ地中にある。私たちはまだここにいる。リュッツェラートはまだここにある。炭素が地中にある限り、この戦いは終わらない」と声を上げた。声を上げないことが上品とされるこの国では、あいかわらずのこの「赤毛のアン」のじゃじゃ馬ぶりを決して好まない。とにかく、グレタのような、ジョセー系やセカイ系を嫌う。グレタは、「これは、より大きな世界的な気候変動運動の一部に過ぎない。気候変動と社会正義、そして人種的正義のための運動だ。「変化というものが、権力者、政府や企業の人々、いわゆるリーダーという人たちからは生まれてこないことを今日はっきりと示している。いや、真のリーダーたちはここにいる。」と相変わらずのヒステリックなアイデンティティは、国も世代も異なるが田嶋陽子氏と位相幾何学において同相だと言える。つまり、トポロジーである。
しかし、この両者の同相のヒステリック、あるいはシュパヌングは、全ての問題に通じる核心をついている。この国に必要なのは、ピュアで勇敢な「少女」のマインドである。
『私たちが何を知っているか、何を知らないかに関係なく。
私たちにできることは最善をつくすことです。私は自分の直感を信頼し、そう行動するつもりです。』
16歳の赤毛の少女アンシャーリーの言葉だが、
30年40年、そして50年この「勇敢」というメソッド演技を持続させることのできる「少女」たちの中から世界のリーダーは生まれることになる。