「まるで高度に発達した北朝鮮のようだ」 ピエール瀧容疑者に関する日本の“自粛騒動”に文筆家が懸念

 

「表現の自由」が自明(当たり前)であるとする

この国の「芸術家」や「文化人」の論理の秩序が狂っている。

 

「法道徳、道徳、道徳倫理を犯したヤツは全部排除する」というが、

そもそも、「芸術」を「法」や「道徳」の下の「安全地帯」で「表現」しようする性根が腐っている。それは、「芸術家」ではなく商売人である。商売人であれば社会のルールを守るのが当然だ。

 

「高度に発達した北朝鮮のようだ」ー

 

これらの連中が言うことは、いちいち大袈裟で滑稽としか言いようがない。この国には時効制度もあり、コカインと大麻を併合しても執行猶予の判決は下るのは間違いない。

 

本人に「表現」に対する情熱があれば、もう一度一から出直せばいいし、コカインを続けたければ続ければいい。また見つかれば全てを失うことになるのは、本人も覚悟の上で納得済みだ。周りの覚悟を持たない「芸術家」や「文化人」のこうした「懸念」は本当に見苦しい。

  27日目

 

 

ASD

Art social deployment

芸術社会的介入

 

    

                                     

        

                      インダストリー2.5

                                   リボットクエスト             

 

 

リボット・クエストの作品は、完成しているのかしていないのか定かでなく、多義的で理解しがたい、不完全なものばかりである。このリボットの芸術的形象は結果物や目的ではなく、より高次元の造形過程や意識生成過程の途中にできたものであった。作品はショーク小工にとって想像をかき立てたり直観をよびおこしたりするアッサンブリを使っており、ショーク小工のその直観を受け手にも共有させ、送り手と受けての間の議論の出発点となる、問題定義のための装置として、また人間が自己を実現しうる新しい存在領域を形成するための手がかりとして機能させようとした。もっともこうした直観はゲイジュツの思想体系の中で成り立っており、受け手の側では共有しかねるものであり、ゲイジュツはそのことを否定せず、対話や説明でヒントを与え、議論のきっかけを作ろうとしている。

 

このゲイジュツのわかりにくい作品は、論理的な人間の理性の部分ではなく、より原始的で直感的な、感性的な部分にダイレクトに訴え、受け手の中にイメージを喚起しようとした。ショーク小工によれば理性とは論理で検証できる、結晶のように凝縮した、量における思考のことであった。他方で直観とは、思考の拡大であり質による思考であった。直観の有機的な原理は理性的思考を包含しており、直観は理解のより高次な形式である、というのがショーク小工の考えであった。さらに加えて「創造性」が理性と直観の橋渡しをするとし、創造性と直観によって人間は自分自身を糧として自律的に発展していけると考えた。

  26日目

 

 

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芸術社会的介入

 

    

                                     

        

                      インダストリー2.5

                                   リボットクエスト             

 

 

 

これらの作品はアートとコモディティの統合表現として、家電エレクトロニクスや雑貨インテリア、商業ディスプレイなどのコモディティの領域での持続可能なアーツ・アンド・クラフツとしてアプローチを展開している。そしてコスト意識を持って市場展開を図ることにより、障害者たちの手による、アップサイクルで持続可能な「小芸術」=コモディティを持続可能な事業として取り組んでいる。疲弊地区に集まって居住する障害者やスラッカーの雇用を促進し、生活を再生させていく。家電製品を修理して再利用する割合を高め環境問題に寄与する。このリ・コンシャスでアップサイクルなアーツ・アンド・クラフツとは、スラッカーとプリミティブが合流する点、あるいは区別されない点のことである。21世紀のゲイジュツを創造するのは、アカデミーのアート教育を受けたアーチストと言われる人々ではなく、今まで通りの常識や発想ではなく、何ものにもとらわれず、何かを創造できる無名の人間である。

  26日目

 

 

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芸術社会的介入

 

    

                                     

        

                      インダストリー2.5

                                   リボットクエスト             

 

 

リボット・クエストの作品に通底するテーマは、〝リバース・アッサンブル〟と〝アッサンブラージュ〟という構成的概念だ。〝アッサンブラージュ〟とは寄せ集めることと、そして不完全であるということを意味する。様々なところから集めた断片を統合して、一次元超えた新たな断片を作り出す姿勢を意味している。西欧の伝統的な美意識には黄金比に起源するプロポーションの観念があり、それは反面、階調であるがゆえに退屈で魅力を感じない。むしろプロポーションが少し乱れたり、歪んだり、傾いたりしているところにこそ、本当の美がある。という積極的なアプローチを展開している。

「古いもの」、「傷のついたもの」、「壊れたもの」にこそ、偶然性、即興性、意外性といった要素が常につきまとう。決して過度な技巧に走らず、廃材や不用な部品など、手元の資源をどう再生するかを考えるかだ。

ピエール逮捕→CD回収・自粛に坂本龍一「音楽に罪はない」

 

坂本氏は芸術家として、人生の終幕に最後の「見せ場」で自らの限界を露呈してしまった。

 

坂本氏の「音楽に罪はない」という言葉は、美しいシーニュだが、「芸術家」にとって最も大切なシュパヌングが存在しない。「人命は地球より重い」という、この国の頭の悪い政治家と全く同じ形而上学的な幼稚な文脈表現だと言える。

 

こうした発言は、「ドラッグに罪はない」、「原発に罪はない」とレトリック詭弁を拡張連続化させ、学者やコメンテーターたちに遊びの「場=隙」を与えることになる。

 

「芸術家」にとっての表現は、表象であり、形象である。決してシーニュやパロールであってはならない。つまり、コンセクエンス具象こそが「芸術家」のレゾンデートルなのである。

 

芸術の表現に「安全地帯」はない。全ての「芸術家」は非ユーグリット幾何学の不安定な砂場に立つことにより、最低限の「表現の自由」が与えられていることを忘れてはならない。

 

「芸術家」にとって最も恐ろしいのは、「美学」を失うことである、それは、「美意識」と言ってもいいし、「美的形式原理」と言ってもいい。

坂本氏はここを誤ると、単なる恥ずかしい「高齢者」となり、芸術家としての過去の選択はすべて間違っていたことになる。