「東山氏は、全ての質問に自分で答え、オープンで透明性が高かった。そこは評価します」
アザー記者と同様、そこは評価できる。記者の目を逸らさず自身の言葉で応えたことは、例え地頭の悪い極悪人だとしても、率直に立派とさえ思えた取材対応だったと思う。
今回の取材で東山氏は被害者に対する誹謗中傷も一つの正義、「表現の自由」の内側だと言い切った。東山氏はもはや完全に振り切ったと見るべき。そもそも、当初より指摘した通り、東山氏は誰よりもジャニー喜多川氏のジャニーイズムを踏襲した、ジャニー喜多川氏の最強の稚児として、ジャニーズという構造を強烈に差配できる唯一無二の存在である。東山氏にとって、これはもう遊びのタレントごっこではない、様々な人間の人生や生死を懸けた、本気の戦争を引き受けた証でもあり、東山氏は今後の人生の塀の内外を決定する命懸けの戦いを「毅然」と挑んでくるはずだ。スマイル・アップとスタートエンターテイメントは一つの器の内側と外側であり、いずれ時間が経てばジャニーズとして再統合されることになる。
テレビ番組制作、マスコミメディア、スポンサー企業、ジャーナリストやコメンテーターまでが、決して東山氏に対して歯向かうことの出来ない異様な構図のなかで、わたしたちも覚悟を決めなければならない。
構造改革、
それは革命と言ってもいいし、
戦争と言ってもいい。
ジャニーズファンや、ジャニーズというフォーミュラ/構造を、完全に叩き潰すまで戦い抜くことが、エンターテインメントだけではなく、この国の在り方をドラスティックに転回する最大の「構造改革」になる。構造改革という革命は、人間の概念のある変化に、みあっている。理解するということは、その対象を表現する力をもつということだ。
革命が人間の概念の変化をもたらすのではなくて,むしろその逆のこと、概念の従属変数として革命が存在する。人間のあらゆる活動を、計算可能な操作に置き換えたとき、それでも人間にしかできないことは残される。それが芸術である。
この国のジャーナリズムは絶望しかない。批評をその場かぎりの印象にとどめず、ひとつの「方法」として磨きあげるためにはどうすればいいのか。わたしたちの言う芸術家とは、工作の過程その射影幾何を、どこまで明確に意識できるかという問いを、生涯を賭けて追究する人間のことを指す。わたしたちの「工作学」とは、ただ作品を作ることではなく、作品制作を可能にする方法を明らかにしようとするこの試みだ。
「工作学」のプロトコルは、規則の集成ではなく、精神がものを作ろうとするとき、そこで実行される複雑な操作を見極めようとする。重要なのは、ここで言うジャーナリズム/批評が、芸術のさまざまな現れに共通する、作るという行為という意味に定義し直されたことであり、この視点から、ジャーナリズム/批評に関する考察をそのまま芸術全般──絵画、建築、音楽、舞踏、演劇、写真、映画等々──に関する考察にまで押し広げることができるということである。
制作の過程をひとはどこまで意識化できるのか、そしてその意識の極限に到達すれば、いったい何が起こるのかという疑問がそこでは追究されている。理解するということは、その対象を作る力をもつということであり、革命が人間の概念の変化をもたらすのではなくて,むしろその逆のこと、概念の従属変数として革命がある。「革命」は人間の概念のある変化にみあっている。人間のあらゆる活動を、計算可能な操作に置き換えたとき、それでも人間にしかできないことは残される。それが芸術だ。