大川小学校のこと | T. Watanabe Web 

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10月28日(金)の夜、品川からボランティア東北ファミリアの第101回目のボランティアバスに参加した。

29日(土)の午前中は、南三陸町の若手集団「海しょくにん」主催の芋煮会。本当はお手伝いのはずだったのだが…。

メインの芋煮にちょっと関わって…

食べる、食べる。そして…

サボる

サボる…(笑)。


同日午後と翌30日(日)は、寄木の高橋七男さんのお宅で浮き玉掃除…

だったのですが…、おやつにホタテを頂き、

さらに、高橋さんの船が丁度メンテナンスを終えたとの報に接し、何と進水からクルージングへ。食べて遊んでがメインになってしまうという毎度のこと。


ところで、現在話題の石巻市立大川小学校。ボランティアバスでは必ず立ち寄る震災遺構である。

東日本大震災当日、地震発生後50分が経過した15時36分頃、新北上川を遡上してきた津波が河口から5㎞の距離にある同校を襲い、校庭にいた児童78名のうち74名と校内にいた教職員11名のうち10名が死亡・行方不明となった。

地震直後、校舎には割れたガラスが散乱し、余震で倒壊する恐れもあったため、教職員は児童を校庭に集め、点呼を取り、全員の安否を確認したという。その後、教職員の間で、学校南側の裏山に逃げる案と新北上大橋のたもとにあたる通称「三角地帯」に逃げる案が対立し、議論は50分続いた。最終的に裏山の足場が悪いことを理由に、「三角地帯」に避難することとなり、避難を開始した直後、堤防を乗り越えてきた津波が児童の列を飲み込んだのである。列の後方にいた教師と児童数人は咄嗟に裏山に駆け上がり助かったという。また、親が車で迎えに行き、独自に避難した児童も助かった。

話題になっているのは、犠牲となった児童23名の遺族が学校側の責任追及のために起こした損害賠償訴訟の判決を巡る行政の対応である。仙台地方裁判所は、学校側の責任を認める判決を下した。それに対して、石巻市宮城県は相次いで控訴の方針を決めた。

争われているのは、避難のあり方についての学校側の過失の有無である。しかし、報道されている通り、裁判を提起した遺族の想いは必ずしも争点と一致しているわけではないようだ。「23人の遺族が損害賠償訴訟に踏み切った背景には、説明が二転三転し、検証も不十分と感じるなど市の対応への強い不信感があった」という(2016年10月27日付日本経済新聞)。

検証が不十分だとされている大きな理由は2点ある。一つは、裏山に逃げることを主張していたとされ、実際に本人は裏山に逃げて無事であった一人の教師の証人尋問が実現しなかったこと。もう一つは、石巻市の教育委員会が震災直後の2011年3月25日に実施したとされる当該教師への聞き取り調査メモと同年4月から5月にかけて実施したとされる教職員、児童、市職員などへの聞き取り調査メモが全て廃棄された(とされている)ことである。
これらのメモの廃棄は、2011年8月21日の河北新報、翌22日の毎日新聞の報道で明らかになった。
その他、市教委と遺族とのやりとりは、池上正樹、加藤順子の『あのとき、大川小学校で何が起きたのか』(2012、青志社)に詳しい。

なぜ、行政は全てを曝け出して挙証説明責任を果たそうとしないのか。果たすことができない理由はどこにあるのか。そこに日本社会の闇があるように思われてならない。

(2016年11月3日)