こんにちは、鶴野です。

ちょっと解説を残しときたくてこちらのブログを書きたいと思います。


しかしこれはあくまで1つの解釈と捉えていただきたいですし、これが正解とは思わないでくださいね。


 “自分で作りだしたものだけど、猫の気持ちまではわからない。描いた時点でそれは私の大好きなものではあるけど、私のものではないから。”  ━━「夢想家の休日」より


これの通り、私の作品ではありますが、書いて世に出した時点でもう私のものではないので。



では、いきます。
 






「夢想家の休日」


この話は「私」が朝早くの電車に乗り、青空に雲で絵を描く話です。

青空に指で絵を書けば、それが雲の線となり様々な形になっていく様だとか、その絵が動き出したりする様だとか。全体的に空想物語で、有り得ないことばかりが描かれています。


この話を解説するにあたって、最初にテーマを明言した方がわかりやすいかもしれませんね。


テーマは「死ぬことについて」でした。


それを踏まえて1番最初から話を見ていきます。


まず「私」は朝早くに普通電車に乗ります。しかし、後々膝の上に置いていた手でスカートを握っていたりと、彼女は『荷物』を持っていないのです。

隣に置いたわけでも、膝に乗せていたわけでもない。

荷物の描写は、彼女が荷物をそもそも持っていないので書く必要がありませんでした。

身一つで朝早くの誰もいない電車に乗り込む、そんな、彼女にとっての休日。

窓の外から見てる景色から想像するに、多分田舎なんでしょうね。



ちなみにこのお話は私が地元に帰った時に、電車の窓の外を見ることが好きで、綺麗な青空の時に雲で絵が書けたらいいのになって思ったところから取っています。



話を戻します。



今日は最高の夢想日和!と彼女は喜ぶのですが、そもそも皆さんは夢想家と理想家の違いを知っていますか?

根本的には同じ意味です。

「こうなりたい」「こうしたい」という想像をどちらもするのですが、理想家の方はある程度現実味があると考えるとわかりやすいかもしれません。

理想に近づくため、みたいな事が言えますしね。

一方で夢想家というものは、非現実的であり、実現することは不可能な事を想像する意味合いがあります。

だからこそ夢であるのですが、物語に出てくる「私」は自ら「夢想」という言葉を使います。

自分の想像が、叶わない事だと、非現実的だと理解をしているわけです。


それでも尚、彼女は形にするべく、青空に雲で絵を描きます。


書いたのは、猫、車、おばあちゃん、電車。

一件普通のようで、ちょっと不思議な選択。

なんでお母さんやお父さんじゃなく、おばあちゃんを書いたのでしょう。

そこは分かりませんが、彼女がおばあちゃんっ子だった事は分かります。


そしてきっと、書いたものの順番というのは、思いついたものの順番です。

そうなると一番最初に出てきた猫は、一番彼女にとって好きなものなのかもしれません。


次に書いた車は、乗るのが好きだったのかな。


でもそれらの絵は、電車が進むと残念ながら見えなくなっていきます。

好きだった猫も、車も、おばあちゃんも。

するとなぜだか猫だけが動き出し、別に素早い動きではないのだけど、しとしととゆっくり彼女についてくるのです。


そうして残ったのは、一番好きな猫と、今乗っている電車の絵。


一番好きなものを見失わないようにと、猫は動いたのかもしれませんね。

現にそんな猫を見て、彼女は「心から好き」と強く思ったのですから。


しかし、さっき消えていってしまった車やおばあちゃんのように、タイミングというものは非情にも訪れます。

全てを失う。

大好きだったものが、無慈悲にも消えていく。


実際は長いトンネルに入った訳ですが、彼女はこんな時でも空想をします。

しかし、どんな空想をしようが結論はひとつ。


私はもうお家に帰れない


少しばかりの希望をと暗闇をつついてみても、ほんの一瞬の星しか生まれない。

流れ星は夢を叶えると言いますが、今この時の流れ星は、暗闇を照らす光にすらなってはくれない。

だから、彼女の心はひとつもときめくことはない。



夢想できるはずの景色が途絶え、彼女は自分自身の考えについて触れます。



そうして辿り着くのは、涙。


彼女は出来ないことだらけの例として「上手く息を吸うこと」すら出来ないと嘆きます。

夢想の中なら、非現実的な夢の中なら、上手く息を吸えるのに。

呼吸すら、現実では上手く出来ない。



そして涙が手の甲に1粒零れた時に、電車はトンネルを抜けます。


しかし彼女は冒頭のように喜びはしません。


彼女は目の前の青空を見て、額縁を見て、決意をします。


頑張らなくちゃいけない。これからたくさん頑張らなくちゃいけない。現実を見なきゃいけない。


そうして最後に、額縁の青空に両手を伸ばします。

本来ならば綺麗に雲の手形が出来てもよいはずなのに、決意をした彼女の目には、手形は一瞬だけしか映りませんでした。


心境の変化でしょうか。


夢想家である彼女が、理想家になる瞬間。

夢想家である自分は、お休み。

という意味でのタイトルでした。


夢想家としての休日ではなく、夢想家を休日、という。


そして物語はここで終わります。





ここまでの解説を踏まえグッと根本に迫っていきたいと思います。


テーマは「死ぬことについて」


この話は全てそのテーマの隠喩だったんです。


例えば彼女が、重い病気にかかっている。

入院生活を強いられ、家の猫にも車にもおばあちゃんにも会えない。

上手く呼吸が出来ないのは、病気のせいでしょうか。

そんな彼女が、とある日に病院を抜け出して、行く宛てもなくどこかに行きたくて、電車に乗ったとしたら?


それすらも夢想家の頭の中だとしたら?


なぜ彼女は青空をいつも額縁の中で見ている?  

病室の窓からしか見えないから?

外に出れないから?






これらを踏まえて次の話に行きます。

今日更新した、「夢想家の現実」です。


今日窓の外を眺めて不意に、あぁあの話をちゃんと終わらせないとな、と思ったんです。




こちらの話は冒頭からベットの上という描写が入ります。

病院とはあえて明言しませんでしたが、

天井が真っ白でつまらないことや、夜になると電気が消えてしまうのは、私自身が入院した時に覚えてるイメージです。
(鶴野が入院したのは小一の事ですし大した理由ではないのでご安心を)


そして、今日は空にお絵描きは出来ない、というのは、空に雲が多くて書くスペースがないからなのでしょうか。それとももう体も上手く動かないのでしょうか。

どちらにせよ、彼女は「額縁の中だけ」は幸せで満たしたいと願います。


上手く歩けないし声を出せない毎日。


彼女自身は幸せなのでしょうか。


いつか笑える日をと望んでいますが、今は笑えていないのでしょうか。



そうこう考えているうちにやってくるのは眠気。


まだ額縁の中の幸せを見ていたい一方で、もういっそ眠ってしまった方が、幸せな夢を見れるかもしれないという不確かな未来への思い。


彼女は後者を選びます。


また目が覚めたら、空を、幸せを見つけられるように。



そんな彼女にはもう、声も届かなくなっていきます。

大きな声ということは、眠りから覚ましたい誰かが傍にいたのかもしれません。


しかし、目を覚ますことはなく、彼女はゆっくりと思考を手放し、奪われます。



あんなに夢想が大好きな彼女が夢想を手放した時でした。



長い永い眠りの中で、幸せな夢を見れているといいですね。














解説は以上です。

まだ色々と言いたいことはあるんですが、もうこれ以上は上手く言葉にできません。

言葉にしてはいけない気もします。

なのでここまで。


これを読んで改めて2作を読むと、色々と変わったことが見えてくるかもしれませんね。

簡単な短編だけど、そこにも登場人物の人生はぎゅっと詰まっていて、私はしんどい気持ちでいっぱいいっぱいです。

物語の「私」に幸せでいてくれと願うことすら、なんだか違う気がして、複雑な気持ちになります。


所詮は他人。


多分、物語の「私」の幸せを願うよりも、1番は自分の幸せを願うことが、この話にとっては幸せな事なのかな。


だからといって「幸せになります!」みたいなのも違う気はするけれど。





私が書く話は何だかんだ毎回伝えたいことが似ていて、そこが嫌だなぁとか思ったりもするのですが、それくらい伝えたいことなんだろうなぁとも思います。

それに毎回本当に伝えたい事の半分も伝えきれなくてもどかしい分、また別の話でもどうにか違う視点で伝えようとしてるのかも。

似てる、ってすごい私は苦手で、誰かに似てるとか、話が似てるって、個性を潰された気になるんですよね。嬉しい時も勿論あるけれど。

私は私だし、この話はこの話で唯一無二だから。

だからこそ、似たような話を自分の中で量産しないようにはしたい。

自分の個性を活かすのは自分自身じゃ!




と、いうわけで。
 

どうか飽きずにこれからも読んでくださると幸いです。



そして次に書いている話は意味がわからないほどギャグコメディなので、そちらの方は何にも考えずにただ笑って読めるような話に出来たらなと思っております。


お楽しみに!