朝早くに普通電車に乗り込むと、自分以外に乗客が一人もいない、貸し切り状態の車両だった。まだ少し眠たい心が小躍りするのを感じながら、ど真ん中に堂々と座る。
目の前には絵画さながら、息を吞むような景色が広がっていた。緑は少ないものの、立派な山々。そこに差し込む朝日が生み出す暖色のグラデーションの煌びやかさたるや。思わず「はぁ~」という間抜けな声が漏れ出る。
空はというと、雲一つない青空で、それがまた私の心を弾ませた。
今日は最高の夢想日和!
早速、青空に人差し指で線を描く。そうすると雲の線がするすると青空に浮かぶ。そのままいくつか好きな物を描いてみる。猫に車におばあちゃん。そしてちょうど電車を描いてる時に、電車が動き始めた。それに合わせるように流れていく景色だけど、空に描いた絵だけはゆっくりゆっくりと流れていく。
視覚の影響なんだろうか。そこん所詳しくないからよくわかんないけど、近くにある景色はどんどんと流れていく。大好きなものだけが、ゆっくりと、ゆっくりと、流れていく。
すると、1つ目に描いた猫が見えなくなってきた辺りで、突然猫が動き出した。素早い動きではないけど、電車の窓の額縁から消えないよう、しとしとと歩いている。
「猫さん、もしかして私を心配してくれてるの?」
だとしたら、なんだか泣けちゃうな。
自分で作りだしたものだけど、猫の気持ちまではわからない。描いた時点でそれは私の大好きなものではあるけど、私のものではないから。
だから、もしかしたらただの気まぐれかもしれない。それでもずっと空を歩いている猫を、私は心から好きだと思った。
そのうち車も、おばあちゃんも、見えなくなって、空は猫と電車だけになっていく。それがなんだか寂しくなっていくようにも思えて、消えていく前にまた好きなものを描き足そうとした。その次の瞬間、急に額縁がすべて黒く塗り潰される。その衝撃に思わず体がビクッと大きく跳ねた。
長い長いトンネルに、電車が入った合図だった。
でも本当は違うかもしれない。今、電車の外では悪い魔法使いが暴れていて、世界を真っ暗にしてしまったのかも。それか急に世界が夜になって、この電車はぐんぐん空を飛んでいっちゃうのかも。だとしたらどうしよう、どちらだとしても、私はもうお家に帰れない。
「……」
黒いキャンパスを、そっと指でつついてみる。そしたらそこだけ明るく光って、まるで星みたいだ。私は星の創造主。たくさん星を作って、星座を作るの。
けれどそれも束の間。出来たはずの星はあっという間に横に流れて消えていく。流れ星みたいだけど、心はときめかない。
「……」
世界が、好きだけで溢れてたらいいのにな。
そしたらきっとみんな、悲しいも寂しいもなくなって、笑顔になれる。人にもたーんと優しく出来る。それがきっと、幸せでしょ?
でも、そもそも幸せってなんなんだろう。笑顔でいられることなのかな。うーん。私には難しいかもしれない。好きなことを好きと言うことしか、今の私には出来ないよ。それが幸せ?
もしも、……もしも本当に世界が好きで溢れたら、どうなるんだろう。それって、どうなんだろう。好きに飽きてきちゃう時が、来ちゃうのかな。好きなら大丈夫なのかな。
……好きって、なんなんだろう。
長い長い暗闇の中、膝の上に置いていた手がスカートをぎゅっと握る。涙が零れてしまいそうで、でも上を向くことも拭うことも出来そうになかった。
私には出来ないことだらけ。いつも、いつもそう。上手く息を吸うことが出来ない。夢想の中でなら、額縁の中でなら、私は自由なのに。
涙が1粒、手の甲に落ちる。それとほぼ同時に、電車がトンネルを抜けた。差し込む光に自然と顔が前を向く。
額縁の中には、雲一つない青空が広がっていた。
頑張らなくちゃいけない。私は、これからたくさん頑張らなくちゃいけない。現実を見なきゃいけない。
好きなものはいつだって私の心の中にあるけど、見失って絶望の渦にのまれてしまう時もきっと来る。
それでも。
好きなものを好きだと言える今を抱きしめて、少しでも、私は空を見ていたい。
頑張るのは、好きなものの為だと思えばいい。
悲しいことや寂しいことも、たとえ好きに飽きたとしても。
私にはたくさんの大切なものがある。これからもきっともっと空に描きたいものが出来る。
出来ないことの方が多いけど、出来ることだってあるから。
額縁の青空に、両手を伸ばしてみる。そこには雲でできた手形が一瞬だけ浮かんだ。