【概要】
夫婦関係や親子関係で当事者からのエピソードを記載します。
【詳細】
▼当事者の話①(コメント:連れ去られた子供)
「俺も幼少期は追い出し親子断絶の当事者で父方の方で育ちました。表面上では母親を意味嫌い内心はずっと母親に会いたかったです。親同士が敵対するだけで、俺は父親も優しかったし大好きで、母親も大好きでした。そして中学校の時、偶然母親と出会いそこから連絡取ったり交流をする様になりました。父親の目をぬすんで。会えば、接していれば子供はわかります。一般的な家庭から見れば変な格好かもしれませんが、両方の親から愛情を受けます。俺には親父もお袋もいる。1人じゃないんだと捨てられたんじゃないんだと前向きに聞いることができるし何より幸せを感じることができるってことをなんで分からん、解ろうとしない連中がいるかが不思議っすねw堂々と自由に気兼ねなく親子交流を実現できる社会にしてほしいと思いますね。親と会うことに引け目に感じるとかわけわからん」
▼当事者の話②(コメント:協議離婚した同居親)※離婚後、良好な関係
「昨日共同親権のニュース動画をスマホで見ていたら、子供が何見てるの?と寄ってきました。簡単に親権や共同親権について話してみましたが、難しいと言っていました。子供は、僕の親はパパとママじゃん、当たり前じゃん、と言っていました。離婚したからと言ってパパが親じゃなくなるわけないし、それでもしパパと会えなくなったら悲しいし僕は怒る、と。やはり私が一緒に暮らしているので私に対しては安心感はあるようですが、親として父親も母親も並列に見ている部分もあるようです。二人とも好きだし大事と言っていました。子供は親の存在を変わらずシンプルに捉えているんだなと感じました。」
▼当事者の話③(コメント:単独監護だった子)※別居後の不調
古い借家で片親と兄弟と3人で過ごしていました。幼稚園時代を過ごしてきたときに、突然、その片親が交際していた異性も含めて住むことになりました。その異性は義理の関係として戸籍上の親の扱いであるということが後に分かりました。その義理の親は、兄弟の容姿について軽蔑するような言葉を投げかけることや、複数回も蹴り続けるなどといった虐待をすることが度々ありました。小学校時代では、酔った状態で帰ってくる義理の親からの暴行が更に酷くなりました。その様子を作文で書いたところ、学校のY先生が片親と義理の親に抗議しました。義理の親が、その抗議があったことに対して憤慨し、私に刃物を突き付けました。そして、意識不明で入院に至るような大けがを負いました。誰も救ってくれる人はいませんでした。しかしY先生だけが、職務外となりながらも、その先生の家で半年間ほど面倒を看てくれました。残念ながら、途中でその先生は異動となってしまいました。その先生に会って感謝の気持ちを伝えたいです。もし離れてしまった片方の親と会えていたのなら状況は変わっていたかもしれません。
▼当事者の話④(コメント:虚偽DV支援措置)※引き離し
性格の不一致で離婚をすることに決めました。ただし、頻繁に会わせるということが約束になっていました。自分たちで決めたので公正証書を作ることはしませんでした。ところが、数か月経過すると会わせないような親子断絶となりました。それどころかDV支援措置法により、子どもの居場所まで分からなくなりました。相手方の弁護士から通知が来て、精神的に追い込まれた日々を過ごしています。子どもに会うためには、法廷で主張しないといけないのでしょうか。
▼当事者の話⑤東京新聞
▼当事者の話⑥(コメント:連れ去られた子供の片親疎外と本当の気持ち)
片親疎外の当事者だった私は、父を亡くすまで「父は貴方を捨てて出ていった」と母に聞かされてた。私と父との記憶は、私が一歳の時に父に抱っこされている写真だけだった。突然25歳の時に父が家に来た。驚きも嬉しさも「何故出ていったのだ」という怒りもあり複雑な感情になった。父は私に話があるといい2人で話をした。何故今更会いに来たのか、何故私を置いて出ていったのか尋ねると、原因は頑なに言わなかったが、「出て行きたくて出て行ったんじゃない、お前と会いに何度もお母さんの家に行った。でも会わせて貰えなかった。お父さんは1日もお前を忘れた事は無い、これだけは分かってくれ」と泣いていた。父は私の前で泣き崩れ、1時間以上も泣いていた。私も一緒に泣いた。父には色んな思いがあったのだろう。母に何故父が帰ってきたのか尋ねると「お父さんは病気になり、もう長くない。お前と会いたいと言われた」と。その日から半年間、父との交流は続いた。しかし父が会いに来て半年後、持病が原因で父は他界した。父が亡くなる前の半年間だけでも父と会えて気持ちも分かって本当に良かった。でも同時に母親を恨んだ。何故私と父を引き離したんだ。私は父が居なくて寂しかった。記憶になかった父は本当に優しい人だった。今でも、子供の頃に父が居てくれたらどんなに幸せだったのだろうと考える。友達と楽しく過ごしていても、何かに夢中になっていても常にどこか心に闇があり、そんな時でもふと真顔になる瞬間がある。どこかで常にぽっかりと穴が開いた心。どこか陰がある。私はそんな子供だった。父もまた苦しみながら生きていたのだ。子供にも、離ればなれになった片親にもそんな思いをさせてはいけない。過ぎ去った時間は心の『闇(病み)』となり取り戻す事は二度と出来ない。あまりに悲しいストーリーだと思う。私の父は約25年間、私と会いたいと願い、それだけを胸に生きてきたと言っていた。私も同じ。私が生まれて59歳で亡くなるまで、私と会えたのは僅か1年半。私と会えない日々はとても辛かっただろう。そこには子供も親も悲しみしかない。
▼当事者の話⑦日経新聞
▼当事者の話⑧日曜報道より
▼当事者の話⑧産経新聞
連れ去り問題解決を。刑法が機能していない。
▼当事者の話⑩武井壮様 youtube談
▼当事者の話(11)中日新聞2021.11.04
▼当事者の話(12)朝日新聞2022.5.27
▼当事者の話(13)
↓引用元
▼当事者の話(14)福井新聞2022.11.30?
▼当事者の話(15)
↑引用元
▼当事者の話(16)
▼当事者の話(17)
▼当事者の話(18)
↑引用元
▼当事者の話(19)産経新聞2023.03.26
▼当事者の話(20)南日本新聞2012.8.19
▼当事者の話(21)南日本新聞2012.8.20
▼当事者の話(22)南日本新聞2012.8.21
▼当事者の話(23)南日本新聞2012.8.22
▼当事者の話(24)
https://www.youtube.com/watch?v=jGDvuUkwNUw
▼当事者の話(25)
↑引用元
▼ 当事者の話(26)
↑引用元
↑引用元
▼当事者の話(28)
↑引用元
▼当事者の話(29)
↑引用元
▼当事者の話(30)
↑引用元
▼当事者の話(30)
↑引用元
▼当事者の話(31)
↑引用元
↑引用元
▼当事者の話(32)
↑引用元
▼当事者の話(33)
↑引用元
▼当事者の話(34)
↑引用元
▼当事者の話(35)
親子関係の直接的な断絶。
↑引用元
【外部リンク】
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