前回、昔話の残酷さについて述べた。
 
 

昔話というものは、この世の理(ことわり)や人間の真実を大げさ且つわかりやすく描くため、残酷さを描くこともある。

そして、その残酷な出来事があればこそ、結末が満足できたり、安心できるものになるのだ。

 

今回は、そんな残酷な話を子どもたちに聞かせても大丈夫な理由を述べようと思う。

 

 

 

理由は、主に次の三つ

①残酷さを具体的には語らないから

 

②昔話は本来、耳から聞く口承文学だから

 

③スキャンダラスな出来事よりも、その物語が伝える真のメッセージを子どもたちは受け取るから

 
 
 
 
残酷さを具体的に語らない
例えば、子ヤギは喰われるけれど丸呑みにされるので、血の一滴も流れないし、どんな風に吞まれたかなど具体的なことは一切語られないのだ。
 
オオカミは子ヤギたちをかたっぱしから ガブリ ガブリと呑み込んでしまいました。
 
というように、あっさりとしか語らないのだ。
 
子ヤギは恐怖の悲鳴をあげた だとか
オオカミの牙が子ヤギの肉と骨を嚙み砕いた 
等とは決して語らない。
 
物語の一部として穏やかな表現で語られるので、子どもたちは残酷などと思わずに聞けるのだ。
 
 
 

 

こぐま社の「子どもに語る○○の昔話」シリーズ

『子どもに語る日本の昔話』
『子どもに語るグリムの昔話』
『子どもに語るアイルランドの昔話』
その他多種あり
 
 
 
 
②昔話は本来、耳から聞く口承文学だから
世界中の民族が子どもに昔話を語ってきた。
それは、ほとんどの民が文字を読み書きできない時代、紙やペンもない時代からずっと口で語られてきた。
聴き手は耳からの情報を頭の中で処理して 物語を想像する。
視覚に訴えない分刺激も穏やかなのだ。
視覚的な刺激というのは、脳に強く働きかけ長くイメージが残るものだそうだ。
 
 
以前、絵本の「オオカミと七ひきの子ヤギ」を怖がった年長さんに、絵本なしでこの物語を語ったら怖がらなかったのだが、それを証明していると思ったものだ。
 
 
 
続きは次回に