私自身、心の弱い人には少々厳しい存在なのかもしれない。
心の強い人にとって病気とは、治すもの、克服するものである。
私は子どもの頃、医者に見放されるような障害を負ったことがあるが、障害に対し、「これはヤバい」「すぐにも頑張らなくては大変なことになる」という危機感が強く感じられたので、必死になってリハビリに取り組んだ。医師の宣告を信じいていた両親は、どんなにリハビリをしても意味が無いと思っていたらしく「無理をしなくていい」と言っていたが、私はとことんリハビリに取り組んだのである。
その結果、奇跡が起こり、障害を克服できたのである。私の執刀医は、「私が君を治したのではなく、君の生命力が、素晴らしい奇跡を起こしたのだよ」と話していた。
私の親戚で癌に冒された人がいて、絶望の表情で見るも無残な様子だった。そのご、医師の余命先刻よりも早く亡くなってしまった。彼は、癌と言う言葉に、生きる気力を失ってしまったのである。余命先刻の時間を十分に活かすことなく、何もしないで死んでいったのである。仕事の出来る人という印象のあるおじさんだったが、実は心の弱い人だったのである。
塾の子どもたちにしても、大人にしてもそうであるが、心の弱さに対して決して「かわいそう」とは思わない。「何で頑張らないんだ」「何でベストを尽くさないんだ」と、どうしても責めてしまう。この人達は、自分は「○○だからできない」と言う。
私は、「○○だったら治そうとしなくちゃ、克服しようとしなくちゃ」と言ってしまう。
彼らは雑念に押し潰されている。「できない」と言う言葉を何度も何度も心の中で反芻しているのである。
私は瞑想することが好きだ。瞑想は、雑念を捨て去ることを目的としている。雑念を捨て去った後の清らかな世界の中で、神と共にいる喜びが得られる時間となるからだ。
瞑想をする時は、自分が男であるとか女であるとかといった性別も無くし、年齢も経験も得た名誉もすべて無くし、自分の趣味やこだわりもすべて無くした状態に持っていく。もちろん瞑想が終わったなら、雑念を取り戻し、雑念を楽しむことがあってもいいのである。しかし、雑念がある状態では、神と共にいる喜びを得ることはできないのである。
時々、雑念を無くする練習をしないと、調子の良い時には雑念のために有頂天になり、調子の悪い時には雑念のために酷く落ち込むのである。このようにして不安定な精神が築かれてしまうのである。
よく「あの人は病気に逃げている」という表現があるように、病気を言い訳にして厳しい現実から逃げようとする人がいる。本当に病気の人なら、決してそんなことは考えない。頑張るか、絶望するかのいずれかである。一番良くないのは、自分を甘やかすために病気を口にすることである。偽うつ病、偽障害がいかに多いことか。本やネットの情報は、この人たちの言い訳のネタに悪用されているのである。生ぬるい自分を認めて欲しいと贅沢な要求をしてくるのである。
〈病気を口にする人〉はモチベーションを下げ、それを聞かされた人もモチベーションが下がってしまう。こんな考え方を私は許すことができないのである。(カウンセリングではお金をもらっているので、もちろん相談者の願う方向性を受け入れてあげて安心させている。わがままをそのまま受容するのがカウンセリングの基本だとも考えている。しかし、そこには愛は込められていないような気がする。)
私たちが、この世に生まれて来た目的とは何なのだろう。私たちが死ぬ時、「私は何一つ成功をすることができなかったけど、実にいろいろなことにチャレンジしてきた。良く頑張ったと思う。」と言えられたとしたら、それこそ成功の人生なのだと思う。しかし、「私は運が悪く、親に、出会う人たちに、ことごとく人生を台無しにされた。本当につまらない人生だった。」では、本当にお馬鹿な人の人生と言うしかない。何で、そこを乗り越えようと努力しなかったのか。何で他力本願的な考え方しかできなかったのかということなのである。
シュタイナー教育とは、魂の教育であり、魂を磨くことに主眼をおいているのである。そう言う意味では、頑張れない人には大変辛い教育なのかもしれない。しかし、その辛さを乗り越えたその先の世界を体験して欲しいのである。
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