「信じる」の裏側にあるものは、「わからない」なのだと思います。
神様を信じているけれど、実際に見たわけではないので、「わからない」
今日のスケジュールは決まっているけれど、上手くいくかは、「わからない」
何よりも、人の心は、「わからない」
つい置き去りになりがちな、自分の心も、やはり「わからない」
「わからない」けど、頑張ることで、きっと良くなると信じたい。
「わからない」けど、ポジティブに考えることで、未来への希望へと繋いでいきたい。
そして何より、「わからない」からこそ、人は、祈るのだと思います。
反対に、「わかっている」というのは、危険な感じがしてなりません。
「わかっている」と考えると、他者の話を素直に聞けなくなってしまう。
「わかっている」と考えると、他者に対し、「こういう人」とレッテルを付けてしまいがちになる。
「わかっている」と考えると、差別の心が生まれてしまう。
「わかっている」と考えると、上下関係ができてしまう。
「わかっている」と考えると、人を傷つけることが平気になってしまう。
「わかっている」と考えると、新しいアイディアが浮かばなくなってしまう。
「わかっている」と考えると、信じる気持ちが薄れてしまう。
「わかっている」と考えると、夢や希望が持てなくなってしまう。
「わかっている」と考えると、祈る気持ちが持てなくなってしまう。
「わかっている」と考えると、神様を信じられなくなってしまう。
でも、「わからない」ゆえに、人は、不安な気持ちになってしまうのではないでしょうか。
「わからない」からこそ、慎重にならなくてはなりません。
「わからない」からこそ、謙虚にならなくてはなりません。
「わからない」からこそ、相手を理解しようと努めなくてはなりません。
「わからない」からこそ、勉強しなくてはなりません。
「わからない」からこそ、日々精進しなくてはなりません。
「わからない」からこそ、厳しい現実に耐え忍ばなくてはなりません。
「わからない」からこそ、何度挫折しても、挫けずにチャレンジし続けなくてはなりません。
こうして、「わからない」からこそ、人は強くなれるのだと思います。
「わからない」 だから人間は、信じ合うしかありません。
「わからない」 だから人間は、愛し合うしかありません。
信じ合い、愛し合うところには、必ず、幸せがあります。
神はいると決めつけている人にも問題がありますが、神がいないと決めつけている人にも問題があります。どちらも「わからない」ことなのに決めつけをしているからです。ただ、私は経験的に、神と共にいると考えると自分のポテンシャルが最大限に出せることを経験的に知っています。人間は悪くなる方がたやすいからです。
では、なぜ神は見えないのでしょうか。逆に、もし神が見えたとしたら、私たちに自由意思がなくなってしまいます。「神を裏切ることのできる自由」があるからこそ、神を愛する自由も得られるからです。神は、強制によって人間たちから愛されることを望むでしょうか? 私たちに置き換えて考えてみても、強制によって恋人から心の伴わない愛を受けたとして幸せを感じられるでしょうか? 愛とは、その人が「自分の意志で、自分の責任で」愛する時に、意義のあるものになるものだからです。ですから、 聖書にある「いまだかつて、神を見た者はいない。」(ヨハネによる福音書1章18節)は、実に的を得ている言葉なのです。
例えば、キリスト教が唯一正しい宗教であるといった「決めつけ」をした上で、そこからどんどん掘り下げて考えていく。それを極限まで高められていったものこそが真理であると考えるような方法を【演繹法】といいます。逆に、キリスト教だけではなく、世界に存在するあまたの宗教やあらゆる自然現象を比較検討し、客観性や共通性、さらには法則性(※〈参考〉自然現象の法則性)、再現性、数値化を考慮したうえで嘘の無い真理を見いだしていこうと考える方法を【帰納法】といいます。私は、後者を支持していますが、前者であっても善良な人間が多くいるので否定はしていません。
私は、臨死体験やポルターガイストなどの霊現象を多く体験しています。このように人の知り得ないことを知ると、それにどう尾ひれを付けて語ったとしても「わからない」ゆえに多くの人は否定できず信じてしまいがちになります。実は、そこに問題があるのです。むしろ、そういった体験をした人ほど、「わからない」の姿勢を謙虚に保ち続けなくては、返って真理が遠のいていってしまうのです。
優れた知恵を得ているから人間性が優れているとは言い切れません。また、知恵に劣っているからといって人間性も劣っているとも言い切れません。知恵と人間性は全く別ものだからです。私がクリスチャンである理由は、その知恵が唯一正しいものであるからというものではなく、聖書にある「友の為に命を捨てる以上に大きな愛はない」(ヨハネによる福音書15章13節)と言った、その生きる姿勢(つまりは〈利他の精神〉)に大きな価値を見出しているからです。
真実を見出していく過程とは決して幸福なこととは言えないのかもしれません。多くの歴史や宗教、民族までも、ねつ造されたものである可能性が高いからです。仮にイエス・キリストが実在しない架空の人物であったとしましょう。そうであっても、キリストの精神に生きた素晴らしい先人たちは確実に存在しているわけです。私は、その素晴らしき先人たちの生き方を大切にしています。ですから、真実を知ったからといってショックを受けることはありません。21世紀は、「世界の真実」が次々に暴かれていく世紀になると思います。そして、その先には、宗教や民族の争いのない平和な世界が開けてくると信じて心より祈りたいと思います。
※〈参考〉自然現象の法則性
自然界の法則の一例として、〈自然界の8対2の法則〉は興味深いものがあります。働きものの代表格の生物ともいえる働き蜂やアリでさえも2割だけが働いていて、8割は怠けているというのです。園児による実験調査によると人間においても、自立組は2割で、依存組が8割なのだとか。しかも働き者に休んでもらったところ、働き者の予備軍が自主的に(自然に)働き者になって、8対2の状態が保持されたというものです。そうなると「全員が働き者になれと」と考えることは、自然の法則に反することになるわけです。教育においても、その子が2割の子なのか予備軍の子なのかを見極めた上でレベルアップを図るべきなのかもしれません。ただ、最近の子どもたちの傾向としては、2割どころかほぼ全員が、お手伝いを無報酬なのに、お友達と楽しく喜んでやっていることです。
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