不思議な幻影 | 恵翠(けいすい)書道教室

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今日の記事は、公開するべきかとても悩んだ。多くの人が大切にしている宗教的概念を激しく覆すような内容とも受け取られがちな側面があるからだ。

私自身、自分が長いこと大切にしていた宗教的概念(キリスト教の教え)を失うまいと、このことは全くの別物として考えるようにしている。どっちが正しいというような見方だけは、絶対に避けた方が良いと思うのだ。そのことを前提にして読み進めて欲しいと思う。

リーニ・ブローディー著 牧野 潤訳『クリスタルボウル・ヒーリング(上)』(アルマット 2003年)によると、伝説上の古代アトランティス人たちは、色彩と音の持つ複雑に交差する全ての光線と副光線を取得・熟知していた」らしく、彼らは人体と脳の神経回路図を表し、エネルギー体の全てのエネルギー経路を知っていたという。

そして、エネルギー体へのエーテル手術が好まれ、肉体への手術よりも一層望ましいと考えられていた。メスを使うことなく、エーテル体を修復することで肉体的な外科手術ができたのである。そこまで高度に発達した文明は、そういった波動療法が無制限に乱用されてしまった結果、地球のアンバランスの元凶となり、未曽有の巨大地震によりアトランティスが海底に沈んでいったと、その本では説明されていた。

このことが頭にあってのことなのかもしれない。新聞配達をしていたある日の朝。朝と言っても、3時前なので、真っ暗で月夜ではあったのだが、突然、次のような幻影が意識下に飛び込んできたのである。私はかなり疲れていて、眠気と戦っていた。私は、車を路肩に停めて、幻影の様子を、眠い目をこすりながら、メモ帳に狂ったように書き留めたのである。

その幻影によると、エジプト文明は、アトランティスの残党達によって築かれた文明となっていた。多分その筋の研究者ならば、ギリシャ文明がアトランティスの残党達と考えるのが一般的なのだろうが、私の見た幻影ではエジプト文明だったのだ。アトランティスの大悲劇の反省から、真理は秘儀として一般に知れ渡らないようにする必要があったのだ(秘儀を外部に漏らす者には死=暗殺されるのである。そこまでしないと守り切れないのである)。

そこで編み出されたものが宗教なのである。

宗教は、教育が不十分なため狂った方向性に走りやすい民衆たちの心を静め、王(ファラオ)に服従するための道を示すものであり、それゆえ、わざと人間界のレベル(低次元)に留まるように仕立てたものだったのだ。

つまりそうなると、古代から、宗教とは別に真理が存在していたことになるのである。逆に言えば、真理(秘儀)を隠すために宗教が存在してきたのかもしれないのだ。

キリスト教に至っては、キリストが実在したのかが見出しにくいし、それどころか古代ユダヤ人の存在すら見出しにくいのである。証拠資料が全く存在しないのだ。仮に、両者が共にある目的のために、ねつ造されたものだとしても、凄いのは、教祖が一代で築いたような概念ではなく、何世紀もかけて作り上げられていることにある。一代の教祖によって築かれている新興宗教とはそこが大きく異なっているのだ。

さてキリスト教は、モーゼと過ぎ越し、出エジプト等の記述からもエジプトを蔑視する傾向があるが、私は逆にエジプトに触れさせたくない理由がそこにあると見ている。古代エジプト文献に聖書の基本形がいくつも見出せるからだ。

釈迦にしてもキリストにしても、教祖の死後、聖典として確立するまでにかなりの時間を要しているのである。オリジナルが見えなくなるほど書き加えられているといった感じもするが、この場合、訂正に訂正を重ねながら、オリジナルを遥かに超える進化を遂げていると考えるべきなのだろう。一説には、弟子たちの度重なる背教によりオリジナルの輝きが失われてしまったのだと考えている学者もいるようだが、それは人間離れした神がかりな教祖が実際に存在したということが前提となっているので、かえって疑わしい感じすらするのである。

キリスト教は、愛の教えを説く聖典があるが故に、神に(高い次元の存在から)祝福されるようなものに成り得たのだと考えている。この愛の教えは、他の宗教には見られない特徴であり、神の愛は、真理解明の歴史の中でも最終段階で解明される真理ゆえ、キリスト教は他の宗教よりも遥かに長持ちする教えといえるのである。仏教は論理的で科学的にも合致している内容が多く含まれている反面、割と早い段階で、真理と解明されてしまうことになるので、その役割を終えるのが早くやって来ると考えられるのである。

キリスト教の素晴らしい点は、多くの素晴らしい証を生み出している点である。大変な困難を、キリストの教えを支えに乗り超えたという証は実に多いのである。重度の障碍者が、キリストの教えにより、見事に障害を乗り越え、祝福された人生を歩んだという証はざらにあるのだ。キリストの教えと生き方に習い、「あきらめない人生」を歩むのはクリスチャンの美学なのである。

さて、話題を秘儀に戻すが、現代において秘儀が公開されるかと言うと、それはまだまだ時期尚早といえるのだと思う。まだまだ秘儀としての真理は、宗教という概念によってカモフラージュされ、一部の選ばれた者によって受け継がれていくしかないのである。秘儀が公開されるためには、さらに数千年の魂の進化が必要となってくるのである。

秘儀が秘儀でなくなることが、人類の究極の目的なのかもしれないが、人は、何度も何度も生まれ変わり、秘儀に出会う者となり、さらに数千年かけて秘儀を習得し、魂を進化させていくと考えるべきなのだ。アトランティスの大悲劇を繰り返さないためにも…

現代において、秘儀に触れられる最良の方法は、ルドルフ・シュタイナーの文献を読むことにあると思う。とはいえ、数冊読んだ程度ではシュタイナーを理解することはできない。10冊以上、しかも異なるテーマの文献も交えて読まなくては、シュタイナーの全体像は見えてはこない。とても難解な書なので、ノート上で図解化するなどの作業を重ねることが重要で、そうしているうちに、だんだん繋がってきて理解が深まるのである。

シュタイナーの文献が難解な点は、1冊読んだからと言って、すっきりとした理解が得られないところにある。ところが、数冊読むとこれが変わってくるのである。点と点が繋がり、シュタイナーが私たちに伝えたい真意が浮き上がってくるのである。このことに気づけた時に、初めてすっきりできるのである。つまり、シュタイナーの文献は、暗号を解くような感じで読み進める必要があるのである。

幻影では、エジプト文明の裏側の風景を見たことになるのだが、そこから枝葉を広げて考えることができたように思う。私は、夢で啓示を受けたことが何度かある。シュタイナーによると、良い眠りは、乱れた自己の内にある濁ったアストラル体ではなく、肉体の外に存在する宇宙との調和に満たされた清らかなアストラルの海の世界へと誘ってくれるのだという。良い眠りは、素晴らしい霊的体験をもたらしてくれるものなのだと感じている。

とはいえ私は、ゲーテやシュタイナーのように、秘儀を公開する、秘儀を一般化するということ自体は、あまり良いことだとは思わない。それは、アトランティスの大悲劇に関わる幻影であったからだ。ゲーテやシュタイナーも、本当のところは、そこを押さえた上で公開しているのだと強く感じている。

安易に秘儀を公開するというのではなく、秘儀を守るにふさわしい、優れた担い手を育て、時代が良い形で進化していくことに協力していくことが真に素晴らしい人生といえるのだと思うのである。よくよく考えてみると、シュタイナー教育の真意はそこにあるような気がする。

エーテル体と肉体との関係はとても重要で、子供時代に、エーテル体と肉体との関係性を向上させることが、魂を進化させるための教育上、とても重要なのである(大人になってからでは困難が生じやすい)。しかも子供時代には、言語的なアプローチよりも、感性的なアプローチの方が効果的といえるからだ。シュタイナー教育におけるフォルメン(絵画的アプローチ)やオイリュトミー(身体表現によるアプローチ)は、そういう意味で理にかなった教育法なのである。

一般人が秘儀に出会える機会を与えてくれたシュタイナーの功績は素晴らしいものがあると思う。自由の時代となった現代だからこそ、ようやく享受できるようになったものではないだろうか。とはいえ、情熱を持って挑まないと、決して秘儀には出会えないという形式のそれらの文献は、悪い者を受け入れないための優れた知恵ではないかと思えてくるのである。

このことを知った上でシュタイナーの文献を読むならば、難解さからくる苦痛ではなく、心から感謝の感じられる素晴らしい時間が開かれてくるのである。





腰の骨を折って寝たきりだった母が、ようやく、たどたどしいながら歩けるようになってきた。介護用トイレで用を足せるようになり、妻は下の世話から解放されつつある。とはいえ、まだまだ手の掛かる状態は続いている。認知症の治療をしている父は、足のむくみから精密検査をしたところ、心臓に水が溜まっていることが判明した。しかしその原因がわからず、数週間前から、私は毎日のように病院に付き添う生活が続いている。

病院の待合のベンチでシュタイナーの読書だけは進んでいるものの、仕事のための時間が作れずに、それが睡眠時間を圧迫している。最近は、眠気のため、その読書もままならない状態ではあるのは辛い。そういうことで、読者のための記事が掛けず、自分の研究内容を書くしかなくなってしまったのである。ある意味、辛い状況故に、深い読み取りができているのかもしれない。

写真で紹介したい子どもたちの素晴らしい作品が多数あるのだが、そういった時間を作ることができないでいる。

塾の様子を書くべきなのに、全く書けないでいる。今のところ、塾の指導にはこれといった支障が出ていないことが、唯一の救いではある。

このような生活が、まだまだ続きそうである。




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