これは私の個人的解釈であり、ある意味私を導くイメージとなっていることではあるが、お釈迦様とキリスト様は、同一アカシック上の人で、前者は「悟り」、後者は隣人への「救い」の道を説いていると受け止めている。
キリスト教とは何かと一言で言うならば、キリスト教は、この世に生まれし、すべての人の自己評価を高められる教えであるということである。どんなに罪の道を歩んでいたとしても、回心するのなら天国への道が開かれるのである。
つまり、キリストの教えでは、人生を何度でもリセットでき、再スタートできるのである。キリストの教えは、輪廻転生を教えているのではなく、真っ直ぐ天国(=解脱)への道を解いているのである。この世に生まれてきた意味とは、そこにあるのだ。
もちろん、過去を変えることはできないので、過去に係わわる苦しみから一生逃れることはできないけれど、繰り返されてきた悪い癖(=カルマ)を断ち切ることで、未来は十分に変えることができるのである。
因果応報で考える仏教は、キリスト教のように人生をリセットするという救いの教えではないのだが、僧侶で作家の瀬戸内寂聴さんのように、若い頃に煩悩の強い生き方をしてきても、出家して仏門に入り、人々の導き手としての人生を歩んでいるような人もいるのである。彼女の素晴らしいところは、仏教本来の「悟り」のレベルに留まっておられずに、隣人への「救い」の道を歩んでいるところにある。ある意味、キリスト的なのである。こういう仏教人を私は心より尊敬している。
私が教師として、どんな子であっても、諦めずに教える姿勢を持っているのは、キリストの教えに基づいていると思う。
宗教とは、プラスのイメージであって、そのイメージが素晴らしい奇跡を起こすのである。
実は、プラスのイメージには正しいも誤りもなく、いかに迷わずにイメージできるかで、その人の潜在能力が開けてくるのである。人間として生まれた特権の一つとして、修行により、誰でもが行き来できるとされるアカシック・レコード(天の聖所でもあるコザール界に存在するとされる宇宙生命の全記録)は、それぞれの人の異なるイメージの世界が入口となっているのである。イメージが異なることは、実はどうでも良いことなのである。他人に左右されない、「あなた自身の心の入り口」を見つけるべきである。
疑ったり、迷っている人は、せっかく持ち合わせているのに潜在能力を上手く活用できないのである。愚かと思えるようなことであっても、その人にとって自然に受け入れられるものであり、一切の迷いが無いのなら、その人は、その愚かと思えるような信心からでも素晴らしい奇跡を起こせるのである。この可能性は、実に素晴らしいのである。
神の素晴らしい奇跡を体験した者は、必ず宗教を超えた隣人への救いへと心が向かうことになるだろう。インドで活躍した聖人、マザー・テレサの人生とは、まさにそのことに尽きるような気がする。彼女はカトリックの修道会に属しながらも、宗教的偏見は全くなかったのである。そして、神様のペンになるべく愛の道をこの世に示したのである。誇り高き異教徒であるインド人に、洗礼を授けることをしなかったと、彼女を批判するクリスチャンがいるのは残念な限りである。
つまり、人間をどこに所属するかという肩書き的な色眼鏡で見ることをしないで、その人の命の尊さと霊性を見ることこそが重要なのである。
今日は少々難しいことを書いたが、何となくでも理解できた人には拍手を送りたい。