今朝、経験について記事を書きました。
経験だけだと視野が狭くなると…
しかし、人を励ます際、生きた経験がなくては、その人に寄り添えないという部分は確かにると思います。この場合、成功に至るような優れた経験ではなくて、むしろ愚かな経験です。
「私と同じ愚か者がいたんだ」と知ると、その人の心は軽くなることでしょう。
自分にとって恥と思えた経験が、ある時、誰かを励ます時に、生きた材料となるのです。
少々、哲学的な話をしましょう。これは写経にも通じるものではあります。
座禅を組んで、煩悩を捨てていく際、経験不足の未熟者はあまりに未練が多いので煩悩を捨てられないのだといいます。
最終的には、座禅は煩悩のみならず、血を流す思いで得た知識や悟りすらも捨てなくてはならなくなります。そこまで捨てなくては、浄化された魂になれないからです。神の領域の入り口に達することができないのです。自分を完全に捨て去ってこそ輝く魂こそが本物なのです。
ある意味、座禅は「死ぬ練習」なのかもしれません。
何も座禅でなくても、キリスト教の黙想でも同じことなのだと思います。
そういう意味でも、良くも悪くも多く経験した方が、未練なく捨て去れるような気がしてなりません。
学問を大いにして、できれば良い経験を多く積む。いや、むしろ失敗の経験を多く積み、それにめげずに成功を模索し、目標通りの成功をするか、目標とは全く異なる成功をするかは別にして、死ぬ時には、未練なく自分を捨て去れる者でありたいものです。
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