『とりかえばや』という物語があります。書かれた時期は中世で、作者は不明なのですが、この物語、じつは世界的に見ても珍しい物語なのです。
主人公の姉弟の男の子と女の子が、それぞれ、性を逆転させて女と男として育てられる物語で、男の子は、成人すると女官として東宮(女性)に仕え、女の子のほうは立派な男として結婚までするのです。
いったい、こういうことは可能なのか、いったいどうなっているんだ、と読む人を惑わせ、性が入れ替わるという荒唐無稽なことを、そんなこと、あるはずがない、と笑い飛ばしてしまうが、待てよ、と考えこませたり。
『とりかえばや』はわが国の文学史のなかでは、その取り扱っている内容から、あまり高い評価が受けていなかったのです。”変態”という評価をさえ受けたのです。その理由のひとつは秩序の破壊をテーマとしていたからなのです。男が女に、女が男に、変わるというのは秩序を乱すことなのです。
男と女の軸は秩序を保つために重要な判断軸なのです。ひとりの男としてあるいは女として何ができるのかというレベルの話ではありません。
ほとんどの文化や社会がそれなりの秩序をもつために、人を無理やり男と女に分けてしまいました。スポーツの世界では、血液中の女性ホルモン値で、男か女に分類します。しかし、それはあくまでもスポーツの世界のことであって、ふつう、ひよこをオスとメスに分けるように、外性器の形状で、男、女に分類しています。
その外性器の形状に基づいて、男と女に分けられ、社会の秩序を守るため、「男は・・・すべし、女は・・・あるべき」という男女の役割、そして男女の優劣、上下が出来上がり、それが道徳となっていくのです。
心の性で自分らしく生きたい、自分の望みの性で生きたいと、男から女、あるいは女から男へと性別を越境する人たちは、どの文化、どの社会でも秩序を乱すものなのです。わが国では性同一性障害者と呼ばれています。
したがって、性の越境を望む人たちに対しては、生殖能力を喪失させたり、性器の改造を義務付けたり、一定の厳しい条件を課し、厳しい条件を満たしても、それでも社会から排除しようとするのは秩序を乱す者に対する支配者からの罰であり、秩序を乱すとこうなるぞ、という見せしめなのかもしれません。
わが国の中世に書かれた『とりかえばや』は、最終的には、それぞれが元の性別に戻るわけですけど、人間を男と女にわける二分法的秩序には無理があるよ、といったんその枠組みを壊して、自分たちが正しいと思っていた秩序というのは案外、錯覚なのかもしれないよ、ということをわたしたちに教えてくれているのかもしれません。