自分自身の心と身体でさえ、自分の思い通りにならないのに、どうして他人、まして、自分の子どもが親の思い通りになるであろう、親も子どもの思い通りになるはずがない。
時期が来なければ、いくら口角に泡を飛ばして、言ってみたところで、人の行動は変わらない。しかし、その時期とは、物差しではない。何歳になったらこれこれのことができる、この年齢になったら、かくかくしかじかになっている、これをしないと落ちこぼれてしまう、これをしたら成績が上がる、などという具合に測ったように人が成長していくわけがない。そもそも自然そのものが予測不能の気まぐれではないか。天気予報が当たった、などというのは、当たったんだ、と錯覚しているだけだ。この世のあらゆることは、多様で、あるがままなのである。そのままなのだ。
時期とは縁である。縁とは条件である。条件が整って、はじめて、つぎの道が歩けるのだ。
かつて、寺子屋では、さまざまな年代の人たちが、思い思いに学んでいたと聞く。さまざまな人たちに、そのさまざまな人たちの理解の程度に応じて、さまざまな方法で教育をしていたという。その意味では、寺子屋というところは、多様性に富んでいたのだ。多様性とは臨機応変に対応することであって、人が自分の好き勝手をすることではない。
まずは、自分がやって見せて、これはこうなんだよ、と言って聞かせ、そして、自分の後ろ姿で、ものごとを教えてみることだ。そうすれば、自分自身でさえ、自分自身が思い通りならないことに気付くであろう。
なにごとも自分の思い通りにならないよ、生きていくことは大変なんだ、だけど、いま、この瞬間、いま、やるべきことを、切にやっていくことが大切なんだよ、と大人たちは子どもたちに教えなければならないのだが、・・・。
