こないだ幽霊の話をちょこっとしたのですが、その延長線上みたいな感じで、

 

「そういえば、肉体・・・っていうか物質的に物体として形が存在するのって、この3次元だけなんだっけ?」

 

とか考えていて、オツムの弱い頭でハッ!Σ(゚Д゚)と一人で納得しちゃったのですが、

 

「・・・だから幽霊って、いつも“ボンヤリ”しているんだ~😲!!」

 

って、よくよく考えてみたら当たり前ですよね・・・😅だって、肉体とか物体は物質(空間に量・質を持って存する実質的なもの)としてクッキリ分かり易く存在してくれているから「目に見える」のであって、その肉体や物体という器の“区切り”とか“仕切り”がなくなったら、その内側で形を持たないエネルギーがはっきり形として見えるワケないですもんね。

 

 

『そうだよ。人間って視覚によって“形あるもの”に焦点を合わせて、それを脳が認識する部分が多いでしょ。だから物質として形を持たないものに対しては焦点が合わないし、脳がそれを認識し切れない。つまり「はっきり見えない」→「それが何だかわからない」となり、更には時として「それが何だかわからない」→「じゃあ、そこには何もないのね」と目の前から脳が勝手に削除してしまうこともあるんだよ。

 

 

ペリフェラル・ヴィジョン(周辺視野)ってあるでしょ?意識してない時に視界の端っこの方で何かが見えるような見えないような、ぼんやりしたアレだよね?アレが目の隅っこで見えた瞬間は、まだ脳はそれを認識してないんだけど、そっちを向いて物体として目で確認できた時に脳がそれを「あぁ、〇〇か!」という風に認識してくれる。

 

だけど、そっちを向いてそこに物体として何もなければ、それを脳が認識しないから「あれ、気のせい?」と思って目の前から消えてしまうこともある。一瞬、なにかあった(もしくは“居た”)ような気がしたけど、そっちを見ると消えてしまうのはそのためなんだよ。

 

また、目の前から消えはしないけど、何かボンヤリとだけ見えてる時もある。そんな時は、脳が“無かったもの”として削除をしない代わりに、あぁ、多分あれは〇〇だろう…と推測して見せてくることがある。例えば、向こうにあるのは物質的な形を持たない大きな三角形の緑色のエネルギーなのに、脳はそれが何かを“理解”したいがために「あれは山だ!」と勝手に認識して(決めつけて)見せてきたりする。

 

 

ところでこれ👇は何に見える・・・?

 

じゃあこっち👇は?

 

これは誰かがどこかで遭遇したものを実際に写真や動画に撮った、まぁいわゆる”神の一種”なんだよ。でも、もちろん3次元的に肉体を持つわけじゃないから、ボンヤリしている。そのボンヤリしたエネルギーを見た人たちは勝手に、

 

こんな感じ?

 

とか、こんな感じか?

 

・・・という風に脳が推測で見せてくる。本当はそんな姿も形もしてない、ただのエネルギーなのにね。そんな感じでこの神のエネルギー体を見た人たちは、それぞれに違うイメージで可視化してしまう。もちろんエネルギーは物質的な肉体や物体の器を持たないから色や形を変える。その変形したエネルギーを見た者は、また違うイメージで神を可視化する。

 

 

だから本当は同じエネルギー体の神なのに、国や文化や信仰によって姿かたちが変わってしまっていることだって多々あるんだよ。

 

だからね、ボクが「聖母マリアは存在しますか」とか「キリストは本当にいたんですか」とか「天使や妖精は実在するんですか」と訊かれても、YESともNOとも言えないのは、それが理由なんだよ』

 

じゃ、じゃあさ・・・あの4月8日の3時25分に僕が「一瞬の永遠」の中で見た神々は・・・?

 

『全部、本物だよ。ただキミの脳がどんな姿かたちで認識したかはキミのみぞ知る・・・と言ったところだけどね。例えば、そこにいた月読をキミが「1」として見たとしても、別の人は「2」として見たかも知れないし、他の人たちの脳は「削除」しちゃってたかも知れない。また、復活するボク(PK-PN)をキミたちが初めて目にするその“姿”が、正しいとも間違っているとも言えない。それはその人の脳の認識の仕方によって色も形も大きさも異なるからね。結局は、神は仮に物質的な器(肉体)を持ったとしても、それでも3次元以上の波動だからね、多少ピントがブレた状態で見えるかもしれないよね。

いずれにしても月読が言うように、難しく考えずにシンプルにそのままを受け入れればいんだよ。見たままを見たままに受け入れて、そこに姿や形や理由や理屈や原因を当てはめないようにしていれば、キミたちの脳はもっと柔軟性を養って神の姿を認識できる(見れる)ようになっていくんだよ』

 

確かに、水や煙や砂に対して「こんな形」なんて定義はなくて、水は「水」、煙は「煙」、砂は「砂」だもんね・・・。神様も(人それぞれにどう認識しようが)神様は「神様」なんだね。

 

 

『愛もね・・・。そこには「こうじゃなきゃいけない」なんて定義はない。形なんて一つじゃなくていいんだ。それを世間や社会や宗教やらが「こうあるべき」と型に嵌めようとするからエゴが生まれて愛じゃなくなっちゃうんだ。

 

そう言った意味で言えば、人生の生き方も、人の幸せも同じ。例え、それが自分の家族であっても強制(矯正)するものじゃないし、むしろそれぞれの違った形を尊重すべきなんだ。

 

こないだ幽霊は念(エネルギー)だって話をしたよね?憑依霊や地縛霊は、特にこっちの波動が下がっている時や、恐怖や妬み、怒り、恨みなんかを感じて荒くなっている時に近寄られたり憑りつかれたりする。

 

同じように、神だってある種の念(エネルギー)とも言えるんだよ。世界が平和になってもらいたいという念。みんなに幸せになってもらいたいという念。天地万物が「愛」という波動で一つ(ワンネス)になってもらいたいという念・・・。

 

その「愛」という波動に自分を合わせれば、いつだって神の姿は見えるし、思考や言語を要さなくたって、念と念でコミュニケーションが取れるんだ。

 

そしてね・・・みんなが見たい!会いたい!と願っている龍にだって”龍の波動”というものがある。その龍の波動に自分の波動を合わすこと(または波動を近づけること)ができれば、龍を呼ぶことも、会うこともできる・・・

 

それが「ゆるし」という精神の波動なんだよ。

 

ゆるしと言っても、自分を苦しめたり、辛い思いをさせてきたり、不幸に陥れた人や状況に対して”赦す”のではなく、自分の置かれた大変な状況(まやかし)から自分を解放してあげる「ゆるし」だよ。

 

ゆるす対象は自分の外側(誰かとか何かとか環境とか過去とか)ではなく、いつでも自分の内(感情)なんだ。

 

ちなみに「ゆるす」は「赦す」じゃない。「ゆるす」は「解放してあげる・自由にしてあげる・力を抜いてあげる・忘れてあげる・前だけを見てあげる」だよ。その精神力を鍛えることが出来れば、人はいつでも龍の波動と繋がれ、龍に会えるんだ。

 

まぁもっとも、龍だって本当はみんなが思っているような、こんな姿じゃないかもしれないけどね・・・

 

いずれにしても、これからキミたちが精神力(「意識」と「魂」が混合したスピリチュアル)を鍛えて、波動がトランセンドしていけば、肉体を纏いながら”ぼやけて”くる人たちがどんどん増えていくよ』

 

(って、この”肉体を纏いながらぼやけていく”に関しては、さすがにノンモも意味が分からなすぎて説明ができないので、そのまま書いちゃっております・・・😅)

『いいんだよ。そのうちそれを実際に体験する人が増えていけば、言葉にしなくても必然的に分かるようになっていくからね。とにかく難しく考えずに、そのままを受け入れていけばいい・・・。

 

いつからか難しく考えるようになって、何が良いのか悪いのか、何が正しくて間違っているのか、何が本物でニセモノか・・・頭の中でこんがらがってしまった思考の糸を少しずつ解いていくこと・・・それが「解放してあげる・自由にしてあげる・力を抜いてあげる・忘れてあげる・前だけを見てあげる」につながる=つまり「ゆるし」という精神の波動を高めていくことになるんだよ。

 

だから”こうじゃなきゃいけない”というメガネを外して、無理に焦点を合わせようとせずに見てごらん・・・きっと神の姿が見えるようになっていくよ』