どんな本でも、それをまったく読んだことのない人に向けて
中身をひとことで説明するのは難しいけれど、とくに難しいタイプの本というのがあると思う。
単に、その本への理解が浅かったり、
解説できるような言葉の知識・語彙力が自分に備わってないだけなんだけど...。
これも そんなひとつかな?
1冊置いてみます。
『出家とその弟子』
倉田百三
岩波文庫
※奥の、カバーのない古い版は、
13年前に私が自分用に買ったもの。
売るのは、手前の 新しい版。
予価400円
小説形式ではなく、戯曲形式で書かれてます。
"身に徹して人生の悲哀を痛感せる作者が、親鸞聖人を主人公として
具体的に全人格的に、自己の内的生活を表白した不朽の戯曲である"
(古い版の帯より)
"浄土真宗の開祖親鸞を主人公とした本書は、生き方に悩む人々の心を捉え、
のち各国語に訳され、海外にも数多くの読者を得た"
(新しい版のカバーより)
こういう古い本は、今ではもうあまり読まれなくなってるのでしょうか??
もったいないなぁ と思います。
アメブロの本レビューのブロガーさんたちも もっと新しい本について書いてる人の方が多いですね。
私も、買った当時は、難しいかな?と思って読み始めました。
私の読んだのは古い版なので、
漢字が 旧字体で書かれていて、
その点は少々読みづらかったかもしれません。
たとえば...
円→圓
実→實、
体→體、
芸→藝
売→賣
学→學
万→萬
変→變
独→獨 などなど...。
(※今回 販売用のは、新字体なので読みやすいです)
だけど、たとえば親鸞と、50歳年下の唯円の会話部分など、じつに面白く、
二人の存在を 生き生きと感じられ
(内容は感傷的だったり無常観を感じるにしても)、
ひきこまれていきました。
親鸞
『淋しい時は淋しがるがいい。
運命がお前を育てているのだよ。
ただ何事も一すじの心で真面目にやれ。ひねくれたり、ごまかしたり、自分を欺いたりしないで、自分の心の願いに忠実に従え。
それだけ心得ていればよいのだ。
何が自分の心の本当の願いかということも、すぐには解るものではない。
様々な迷いを自分でつくり出すからな。しかし真面目でさえあれば、それを見出だす智慧が次第に磨き出されるものだ。』
親鸞
『....人生には老年にならぬと解らない淋しい気持があるものだ。』
唯円
『世の中は若い私たちの考えているようなものではないのでしょうね。』
親鸞
『「若さ」のつくり出す間違いが沢山あるね。それが段々と眼があかるくなって人生の真の姿が見えるようになるのだよ。
しかし若い時には若い心で生きて行くよりないのだ。若さを振り翳して運命に向うのだよ。
純な青年時代を過さない人は深い老年期を持つ事も出来ないのだ。』
親鸞
『人生の淋しさは酒や女で癒されるような浅いものではないからな。
多くの弱い人は淋しい時に酒と女に行く。そして益々淋しくされる。魂を荒らされる。
不自然な、険悪な、わるい心の有様に陥る。それは無理はないが、本道ではない。何処かに自欺と回避とごまかしとがある。
強い人はその淋しさを抱きしめて生きて行かねばならぬ。
もしその淋しさが人間の運命ならば、その淋しさを受取らねばならぬ。
その淋しさを内容として生活を立てねばならぬ。
宗教生活とはそのような生活の事をいうのだ。耽溺と信心との岐(わか)れ道は際どいところに在る。
まっすぐに行くのと、ごまかすのとの相違だ。』
親鸞
『人生にはまだまだ淋しい事があるのだ。人は捨て難いものをも次第に失うてゆくのだ。私も今日まで如何に多くのものを失うて来た事だろう。
(独語の如くに)ああ、滅びるものは滅びよ。崩れるものは崩れよ。
そして運命に毀(こぼ)たれぬ確かなものだけ残ってくれ。
私はそれを犇(ひし)と掴んで墓場に行きたいのだ。』
そしてこれは別の人との会話で。
親鸞
『善くなろうとする願いを抱いて、自分の心を正直に見るに耐える人間はあなたのように苦しむのが本当です。
私はあなたの苦しみを尊いと思います。
...(略)...
人間は善くなり切る事は出来ません。
絶対に他の生命を損じない事は出来ません。そのようなものとしてつくられているのです。』
倉田百三
『出家とその弟子』(岩波文庫)より
※この本は、もしかすると来月の
『女子の古本市』(京都のレティシア書房さんにて)に出品するかもしれませんので、気になる方は今月27日までに見に来て下さいますようお願いします。