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雷神トールのブログ

トリウム発電について考える

私が画材屋に勤めていた時代はどんな時代だったか? 

1970年11月25日。三島由紀夫が市ヶ谷の自衛隊で決起を呼びかけ割腹自殺を遂げた。

1972年2月、軽井沢の浅間山荘に連合赤軍5人が管理人夫人を人質に警察と銃撃戦を交わし籠城した。

1973年には第一次オイルショック(石油危機)が起こり原油価格が一挙に4倍跳ね上がり、60年代の日本経済が実現した2桁成長に終止符を打ち、世界経済は続く1974・5年の第2次石油危機へと繋がり長期にわたるインフレ、大不況に陥った。

輸出入に頼る他ない日本経済は大打撃を受け、自動車産業は燃費向上を中心とした技術革新に心血を注がねばならなかった。


ベトナム戦争は一向解決の見通しが立たず、北爆が毎日のように続けられ、ベトコンが潜みモグラ作戦が展開されているジャングルへ米軍は大量の枯葉剤を散布し、テト(ベトナムの正月)の休暇中にも爆破テロで今日は何十人死んだとニュースが毎日のように流れる。

ヒッピーの時代が終わりを告げそうな気配だったが、新宿の「風月堂」喫茶店には世界各国から来た無銭旅行の若者たちがたむろしていて、私はせっかく習ったフランス語を使いたくて、それらしき若者を見つけるとなにげなく近寄っては傍に座り会話に口を挟んだりした。

小田実の「何でもみてやろう」が出版されベストセラーになったのは1961 年のことで、それから10年近く経っていたが、大学の同級生でギターの弾き語りをやり、作曲もしていたHが首から提げたハーモニカも吹くという芸当をみせてくれた。Hは、ボブ・デイランの大ファンで「風に吹かれて」をだみ声を真似てよく歌った。ゆくゆくはデイランのようにフォークソングで身を立てて行こうとしてるかのような身の入れ方だった。

 

 

 

 

 

そのHが、「日比谷で小田実と開高健が話しするから聴きに行こう」と私を誘い、「ベトナムに平和を!市民連合」の集いに行った。小田実と開高健は宣伝カーのバンの屋根に上がってマイクを掴み、ベトナム戦争の悲惨な現状を訴えた。

Hは大学を卒業すると有名な歌劇団の裏方となり、やがて舞台監督となって歌劇団の男役女優と結婚した。

そして、私が日本を出て海外で別の会社に就職したばかりの年、入札書類作りを手伝いに一時帰国して東京に着いた翌日の朝、心筋梗塞で死んでしまった。

私が日本を出て外国に住むこととなったのもHの影響だった。私が画材屋を辞め横浜の桟橋から船出した時も、見送りに来てくれた唯一の友人だった。シベリア経由でフィンランド、スエーデン、ノルウェーと北周りのコースを行けと、町ごとに図を描いてユースホステルへの道筋を教えてくれたのだった。


年代的には画材屋で働いた年から少し先へ来てしまったけれど、少しでも時代の雰囲気を書きたかった。

 

私が横浜を出たのは1974年の2月の末で、今年はもう2週間ほどで47年昔のことになる。

時間を数か月戻すと、私が決算の書類作りで徹夜して暫くしてのこと、貿易部にひとりの女性社員が入って来た。彼女は非正規の社員として輸出部に採用されたのだった。T君だけでは手が足りなくなったのだ。

彼女は大学出たてといった年齢で、ドイツ人の若者と同棲しているという噂が自然耳に入った。彼女が貿易部に加わって間もない頃だったが、T君がなにやらSBさんに耳打ちするようにひそひそ声で話をした。話をぜんぶは聞き取れなかったがどうやら新入社員のその女性に子供が出来たらしかった。パートナーのドイツの若者は日本へ来たばかりで職もなく、生活費が足りなくて困ってる、とT 君に訴えたので同情したT君がSBさんにカンパを呼びかけたのだった。