ジャンヌの戦い | 雷神トールのブログ

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1429年4月29日、ジャンヌ・ダルクが指揮する小隊はオルレアンの住民に配る食料品を船で運ぼうとしていた。オルレアンの上流はイングランド軍の警備が手薄なので川上から船で向かったのだったが、烈しい風と戦わねばならなかった。川下から吹き上げてくる強風で船が上流へ戻されてしまう。

だがジャンヌが船に乗り込んだとたん風向きが突然正反対に変り、船は容易にしかも夜陰に紛れてオルレアンの河岸に接岸し荷揚げができたのだった。これはジャンヌが起こした奇跡のひとつと言い伝えられている。

ジャンヌはそれから2日間オルレアン市中を定期的に歩き、食料を住民に配り、余りをフランスの警備隊に分けて歩いた。

イングランド守備隊へのメッセージも忘れずに投げかけた。イングランド側からはもちろん「悪魔の手先!」といった罵詈が返ってきた。

デユノワ司令官を囲む作戦会議にジャンヌも出席し、たびたび激しい論戦を交わした。5月1日、デユノワは何をやるにしても兵の数が足りないと考え留守中の警備をラ・イールに任せブロワへ援軍を集めに行った。

ジャンヌはオルレアンの街の外壁をくまなく偵察してまわった。トウーレル砦の英軍司令官ウイリアム・グラスダルが砦の上からジャンヌめがけて罵声を浴びせた。「アルマニャックの売女め!」


5月3日、デユノワが率いる援軍がブロワを発ちオルレアンへ向かった。同時に、モンタルジスとジアンからも援軍がオルレアンへ向け出発した。5月4日の朝、デユノワが率いる援軍はボース平野を横切りオルレアンの北岸に到着した。この光景はイングランド軍のサン・ローラン砦からはっきりと見えた筈だが、フランス軍が強力過ぎると考えたのかイングランド軍は何ひとつ手出しをしなかった。ジャンヌは街を出て援軍のエスコートをした。


同日(1429年 5月 4日)、デユノワはオルレアンの街に物資と食料の補給に入るのを確保するためモンタルジスとジアンからの援軍にサン・ルーのイングランド軍城砦を攻撃するよう命じた。

ジャンヌは昼寝をしていて、この攻撃の知らせを受けていなかったが、小姓に起こされ急ぎ軍旗を取って駆けつけた。400人足らずのイングランド守備隊は1500人のフランス軍の攻撃に圧倒された。英軍司令官ジョン・タルボットはオルレアンの北端から攻撃を仕掛けたがフランス軍に食い止められた。数時間の戦闘の後、サン・ルーは陥落した。英軍の死者140人、捕虜40人。ジャンヌは捕虜の命を救うよう計らった。サン・ルー陥落の知らせにタルボットは攻撃を中止した。

5月5日はキリスト昇天祭。ジャンヌダルクは英軍最強の砦サン・ローランを攻撃するよう主張したが、他の将軍たちは兵は疲れているので休息が 必要だとし、祭日は休ませるよう主張した。そして夜の戦術会議で英軍の守備が最も虚弱な南岸から攻撃を仕掛ける決定がなされた。

5月5日の早朝攻撃が開始された。オルレアンの住民はジャンヌと一緒に自分たちの街を解放するために戦いたいので民兵を正規軍に加えて欲しいと申し出、困惑する将軍たちをジャンヌが説き伏せ正規軍に民兵が加わった。フランス軍はサン・ジャン・ルブラン砦を攻撃する計画でジャンヌと共にロワール河を舟を繋いだ仮橋を渡ってサンテニャン島に上陸した。しかし、イングランド守備隊の司令官ウイリアム・グラスダルはこの計画を見抜き先にサンジャンルブラン砦を破壊し、トウーレル・オーギュスタンに全兵力を集中する作戦をとった。