畑宏和は見晴台の遊歩道から少し下がったところの草むらに腰を下ろして海峡を見つめた。眼路のはるか遠くに海と空とが溶け込んで水平線が靄がかかったように曖昧に見える。左手の陸地からは巨大な古代の鳥が翼を広げたような斜張橋が空中に向かってわずかに首をもたげ今にも飛び立つかのようだ。その橋の下を流れるセーヌは大量の水を海峡に流し込んでいる。
5年前の今頃やはりここから海峡を見つめたのだった。あれはこの見晴台を初めて見つけた時で、眼下の工業地帯と陽を浴びて水銀のように輝く海峡を息を詰めて眺めたものだった。それから2年経った夏に、宏和はひとつの冒険に挑み、命を落としそうになったのだった。
高台の飛行場で若者たちがデルタプレーンの訓練をしてるのを見てから、宏和のうちに空を飛びたいという昔からあった欲望がむくむくと頭をもたげた。いつのまにかそれはやむにやまれぬ欲求にたかまり、ついに宏和は貯めていた小遣いをはたき飛行場のフライイングスクールへ通い始めた。座学に20時間、実技に10時間の講習を終えて試験に合格。デルタプレーンのパイロット・ライセンスを取った。父親にバレて停められると困るので仲間にもジャンヌや母親にも内緒にしていた。
知人でミュジシャンのアイテ・ムホクがプルトニウムの密輸を阻止しようとアルジェリアに寄港予定の貨物船シライデ丸に乗り込んだのはそれから間もなくのことだった。ル・アーヴル港を出るまでは船倉に隠れていたムホクは、船が巡航速度に達し船員やスタッフが一息ついた頃、少量のプルトニウムを逃亡先で売り払って生活費に充てようと隠し持っていたセルヴァンを探し出すため船室を視て回った。セルヴァンを見つけネゴをするうちムホクは麻酔薬をセルヴァンの首に注射し眠らせてからプルトニウムを奪った。
ムホクを救うため宏和はエンジン付きのデルタプレーンで貨物船を追いかけた。後部甲板に静かに着地し待っていたムホクと交代した後、宏和は海面から10メートルほど高い甲板からダイビングした。気が付いた船員が甲板から射撃を始め、銃弾が白く尾を引いて水中を走り宏和は深く潜水したまま船から遠ざかった。ようやく銃弾が遠のき、宏和は広い海面に頭を出して泳ぎ始めた。
海岸からそう遠くないので、セーヌ川が海峡に注ぎ込む勢いが海水を北に向けて押し上げていた。 ケバウと仲間たちがゴムボートで宏和を救出に来る手筈になっていたのだが、北へ向かう潮の流れが予想以上に強くボートから遠く離れてしまったため、ケバウたちが宏和を見つけるのが遅れ、予想した距離1万メートルの倍近く、時間もずっと長く独りで泳ぎ続けねばならなかった。
幸い宏和が力尽きる寸前にケバウたちが見つけ、宏和はボートに助け上げられ、海岸に駆けつけて待ち受けていたジャンヌとイザベルそれに李たちに抱えられたジャンヌの家へ運ばれベッドに横たえられた。
疲れ切ってはいたがジャンヌと再会できた喜びが宏和の身体の底から突き上げ、明け方までになんども愛を交わしあった。だがやはり心臓は疲れていて夜明けと同時に宏和は心筋梗塞を起こし 危うく死にかけたのだった。
井戸の底のような暗い死の淵に彷徨っていた宏和の幽かに残っていた意識にジャンヌが必死に呼ぶ声が聞こえた。「死なないで、カズ。あなたの子供がお腹にいるの。もどってきてちょうだい。 元気を出して。子供を抱いてあげて……あたしのカズ」
ジャンヌの呼声のお蔭で宏和は残っていたありったけの力を振り絞り、死神と闘ってついに確かな意識を取り戻し甦ることが出来た。ジャンヌと宏和は結婚し、大学卒業と同時にこの北国のフランスとベルギーとの国境近くに進出した日本の自動車会社の工場に就職し、近くの町に住居を見つけ移り住んだのだった。
(つづく)
