赤穂事件再考 その② | 雷神トールのブログ

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播州赤穂は塩田で知られていました。良質の塩は江戸時代、広範囲に売られていたようです。赤穂浅野家の重要な財源だったのでしょうが、赤穂事件の基本に藩財政の困窮があったことはあまり取り上げられていません。浅野家が抱えていた財政難と言う経済的視点から浅野長矩の松の廊下での刃傷を見直してみると、赤穂義士の討ち入りがずっと違った見方で見えてくると思います。

 

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赤穂城址に残る城門↑

 

「忠臣蔵」伝説は明治時代から、忠君愛国とナショナリズム高揚のために利用されてきたと思うが、庶民の間にこれほど人気が長続きするのはそれなりに理由があるにちがいない。

浄瑠璃の「仮名手本忠臣蔵」を皮切りに歌舞伎、小説、大河ドラマと繰り返し赤穂浪士の討ち入りの話が続けられてきたのも日本人の心情と深いところで繋がるものがあるからだろう。

「忠義」ということでいうと、浅野家の祖、浅野長政は秀吉の甥にあたり、五奉行の筆頭でもあったが、石田三成と折り合いが悪く、関ケ原では東軍についた。いわば、成り行きで徳川についた。譜代ではなく中堅の外様大名で、徳川家に忠義が篤いわけではなかった。安芸の浅野家が本家、赤穂は分家となる。

赤穂事件の発端となった浅野内匠頭長矩がいやいやながら押し付けられた勅使接待役をどうみていたか?

朝廷から征夷大将軍の名を賜り、江戸に幕府を開いた徳川家康が朝廷との関係を円滑にするために毎年京に使いを送り挨拶をする。その返礼に京から天皇の勅使と上皇の院使とが江戸に上り挨拶をするので、その御もてなしの儀式典礼と饗応役が大名に振り当てられる。

そもそもは、徳川将軍家が朝廷から任された日本国の統治の大役を年々確認するための儀式なのだから、徳川家が自腹を切って行うべき筋の行事ではないか。それをたかだか5万石(赤穂は塩の収入を加えても6万石)の小規模大名に代行させるのは、今風に言えば、大手ゼネコンがマンションの杭打ちを下請けに丸投げしたり、大手自動車メーカーが燃費や排ガス計測ソフトを系列の下請けに丸投げしたり……と似たような責任と出費回避のためじゃないのか。ちなみに、赤穂の塩は良質で独占的なシェアを占めていた。これに競合する関係で吉良も塩を製造販売していた。

松の廊下事件を起こした浅野長矩は即日切腹、吉良義央は御咎めなしと裁決された。「上野介はまったく抵抗せず逃げただけであり喧嘩ではない」というのが幕府の見解。事件の原因究明なども行われず、ただ個人的怨念で大事な式典を汚したと厳しく罰せられた。

家康以来の伝統だった武士の喧嘩は両成敗は行われず、主君の怨念を家臣が受け継いだ。長矩は田村右京太夫に預けられ、その切腹は、大名に相応しくない狭い庭で行われ、普通なら切っ先だけ出して小刀は晒しで巻かれるのに、刃先が2・3寸も出たいわば重罪人の処刑だった。介錯には長矩の愛刀は使われず、介錯人の刀が使われた。おまけに仕損じて耳の脇に傷を残した。

長矩の遺骸を引き取りに行った片岡源五衛門、礒貝十郎左衛門、田中の三人は泉岳寺に埋葬した後、墓前でもとどりを切って仇討ちを誓った。片岡などから主君の遺恨を聴き、お家断絶、城明け渡しとの綱吉の厳しい断罪を知った江戸詰めの家臣たちは幕府の片手落ち裁決に義憤を覚えたことだろう。

 

 

 


討ち入りの後の、たとえば老中柳沢吉保のアドバイザー役(侍講)、荻生徂徠は義士達の行動を「浅野を殺したわけでもない吉良を仇として討つのは筋違い」と批判している。しかし、暴力はなにも肉体に加えるものだけではなく、心理的暴力は肉体に加えられると同じくらい傷を残す。

お家断絶と城明け渡しを命じられた浅野家家臣たちは、一時期、城明け渡しに幕府から遣わされる竜野藩脇坂淡路守などの軍勢に抗し籠城して抵抗したうえでお城の大手で切腹と決めた。

幕府への抗議、異議申し立ての行動は「公儀に対して畏れ多い」と、家老の大石は当時の武士の倫理から判断しながらも、亡君が果たせず遺恨を抱いたまま逝った「讎」(仇)吉良上野介の首級を挙げる(討つ)こと一点に目標を絞った。

しかし堀部安兵衛に代表される急進派が個人的テロに走る危険を抑え、よりインパクトの強い集団的テロによって幕府への異議申し立てを、古からの武士の流儀に従いながら完璧にやってのけたのだった。

 

 

内匠頭長矩には子供がいなかったため、切腹によりお家断絶となる。長矩は弟の浅野大学を後継者と決めていたが、大学は芸州浅野家お預けとなり内蔵助の願いだったお家再興が叶うのは討ち入りからずっと後の事。

赤穂浪士の討ち入りに怖気づいて刀を捨て逃げ去った上野介の養子義周に対し幕府は「仕方不届き」と咎め諏訪安芸守に預けられ3年間幽閉のまま21歳で没した。