陽明学と題した記事で赤穂浪士について触れたので、過去記事になりますが「赤穂事件」について再投稿したいと思います。
以下は2016年4月にこのブログに投稿した記事からの引用です。
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「右喧嘩の節御同席御抑留の御方これ有り上野殿打留め申さず内匠末期残念の心底家来共忍び難き仕合に御座候。高家歴々へ対し家来共鬱憤を挟み候段、憚り存じ奉り候へども君父の讎(あだ)は共に天を戴ざるの儀黙視難く今日上野介殿御宅へ推参仕り候。偏に亡主の意趣を継ぎ候志迄に御座候。」
これは、播州赤穂の浪人が元禄15年12月14日から15日の末明(午前4時頃)吉良邸に討ち入った際に玄関脇に打ち立てた竹の先に掲げた「口上書」の一部である。
亡君浅野内匠頭(たくみのかみ)は江戸城松の廊下で吉良上野介と出会い、骨髄に達した恨みを晴らすため、脇差を抜いて切りかかった。殿中で刃傷(にんじょう)に及べば、お家断絶、赤穂城明け渡し、家臣を総て路頭に迷わせると知りながら、脇差を抜いたのだからよっぽどのことがあったのだろう。だが、内匠頭は、吉良上野介の傍にいた(ご同席の御抑留の御方)=梶川与惣兵衛(かじかわよそべえ)に羽交い締めにされたため、眉の上にかすり傷と背中に切り傷を与えただけで、その日のうちに切腹して果てた。末期に怨念を残して逝った。われわれ内匠頭の家臣は主君が心底にどれほどの無念を残して逝ったかを思うと忍び難い。ひとえに亡き主君の意趣(恨み)を継いで今日上野介殿御宅へ推参仕った。
「君父の讎(あだ)は共に天を戴ざるの儀黙視難く…」のくだりは四書五経のひとつ礼記(らいき)から採ったもので、堀部安兵衛の提案といわれる。
赤穂城跡に唯一残る櫓 ↑
御抑留の御方梶川与惣兵衛は、松の廊下の事件を食い止めた功労により五日後に500石加増となった。
よい事に みぬふりはせど 与三兵衛 たくみ切ったで 加増一倍
与三(惣)兵衛は、良い事には見ぬふりするくせに 内匠頭の恨み骨髄に達し、やむにやまれぬぶっちぎれを、武士の情けを持ってるなら見逃してやればよいのに、すでに脇差を抜いてしまってる内匠頭長矩を羽交い絞めにして、殿中でござると、まさに機動隊の役を買って出て、高家筆頭の地位にある「意地悪爺」上野介義央(よしなか)を救ってしまった。
内匠頭が眉毛の上と背中をちょっと切ったおかげで加増してもらっってよかったね、と皮肉られた。
浅野の家臣のうち、家老の大石内蔵助は浅野家とも婚姻関係がある繋がりだが、赤穂浪士の中でも江戸詰めで急進派のリーダーとなった堀部安兵衛は、赤穂事件の7年前に江戸を沸かせた高田の馬場の仇討ちの働きに惚れ込んだ赤穂藩士堀部弥兵衛に請われて婿養子となった。生粋の赤穂藩士ではなくて、いわばスカウトされて藩士となった人である。君主とのつながりも他の浪士とくらべ薄かったはずである。にもかかわらず、急進派のリーダー格となり、煮え切らない大石に諫言するなど、吉良邸討ち入りを当初から主張し続けた。そういった堀部安兵衛に代表される赤穂浪士たちが心底に抱いていた思いと、討ち入りを実行するに及んだ信念には、「忠義」の一言では括り切れない、なにかもっと深い、人間的要素があるように思う。
赤穂城内の大石邸跡↑
赤穂事件が起こったのは元禄15年、将軍綱吉の時代。お犬様とか、良貨の改鋳とか、すごいインフレとか、徳川の世が戦国の荒々しい武をもって支配した時代から、文をもって治める、泰平の世の中に代わった時代。それとともに武士よりも商人、義によるモラルよりも金がなにごとをも決定支配する社会に変わって行った時代だった。
歌舞伎では、浅野内匠頭が松の廊下で吉良上野介に切りつけた原因として吉良の「いじめ」を設定し、とりわけ「増上寺の畳替え」と「墨絵の屏風」により内匠頭は堪忍袋の緒が切れるだけの虐待を受けたとする。
なるほど浅野内匠頭は高家肝煎(指南役筆頭)の吉良上野介に「御馬代」として払うべき指導料を巻絹一台と鰹節一連(2本)で済ませるなどひどいケチぶりを発揮した。
同じ接待役の伊予吉田藩の伊達村豊は大判100枚(約2億円)を贈ってるのに、これじゃあ虐められても仕方がないやね、とたいていの者は考える。
内匠頭の勅使饗応役はこれで2度目で、一回目(1683年)には400両を贈っている。2回目で儀典の細目なども知ってるし、指導料は勅使が帰りお役目が終わってから贈るつもりだった。
しかし、この年はそれまでと違い特別な年だった。将軍綱吉の母、桂昌院が「従一位」の官位を得るため、特別重要な接待が望まれた。
吉良上野介は饗応費に1200両は出せと浅野に迫った。しかし浅野は700両が精一杯です、と最後まで応じなかった。
物価は前回(1683年)に比べ2倍にはね上がっていた。1200両でも少ないと吉良は考えたのに700両では、口うるさい公家たちにどんな悪口を言われるか知れたもんじゃない。
そこで自然意地悪が出てしまう。芝増上寺は家康の時代に徳川家の菩提寺となり、以来、塔頭寺院の観智院を江戸へ上がった勅使が休憩所に使い、そこの畳約200畳を毎年換える習わしが出来ていた。
芝居では、内匠頭は勅使饗応役を前日まで知らされず、観智院の畳200畳を、江戸中の畳職人を集め一晩で入れ替えた、となっている。
吉良上野介は新しい畳表の清々しい臭いを嗅いで、よくやったものだと感心しながら、これも「金」のおかげじゃのう。ぎょうさんお金を持ってはるのう、と嫌味を言ったとなっている。
また、勅使のお居間に墨絵の屏風とは不吉千万、無礼であろう、と浅野をなじる場面がある。
ほかにも、式服がなにかわからなくて裃を着て行ったところ直垂だったとわかり、気の利いた家臣が、万一を慮って用意してくれていたので間一髪で間に合い助かったとか、吉良の「いじめ」がこれでもか、と繰り返される。
吉良は高家筆頭で指南役なのだから、そんな意地の悪い事をして、担当役が万一粗相をしたら自分が責任を負わされるのだから、そんな意地悪をするはずがない、というのがネットに載ってる大半の意見。
第一、そんな明らかな虐めならば内匠頭が遺書に書くだろうし、討ち入りの口上書に書かれていいはずなのに、ただ「讎」とあるだけで具体的にひとつも触れていない。浅野が虐められたと思い込んだ被害妄想ではないか?
吉良上野介はお国(領国)では名君として評判もいいし、そんな悪人じゃなかったのじゃないか? という意見が多い。
これらは芝居や小説の勧善懲悪に対して反対の見方もあるとして貴重なのだが、赤穂事件を考える時に、いくつか忘れてはならない要件があると思う。
その①
勅使接待役を命じられた時、浅野は一旦、辞退している。理由は、当時播州赤穂藩が財政難にあり財政改革の最中だった。こんな時期、1億数千万円も出費をしては、藩財政が破綻する、とそれで頑なに予算を渋った。やりたくない役を押し付けられたうえ多額の出費に苦しまねばならない。藩の財政立て直しに腐心している家臣の事を思えば、こんな虚飾の典型みたいな儀式に数千万の出費をするのは我慢がならない。(10両が100万円相当だから、700両は7000万円。吉良が要求した1200両は1億2千万円)
その②
浅野内匠頭長矩には持病があった。痞(つかえ)というストレスなどが原因で喉や胸が圧迫され、微熱が出て鬱状態になる病気。 とくに気候にも影響され、松の廊下事件の日は湿度が高く、痞(つかえ)が発病した。
その③
増上寺畳替えと屏風の墨絵事件がフィクションだったとしても、関係者一同の前で吉良に叱責されたのは事実。これはみんな知ってることなので、ことさら書かなくても「個人的な恨み」だけで解かる筈。
その④
松の廊下の刃傷は、計画的犯行ではなく偶発的なものだった。前もって吉良を殺してやろうと思ったなら、いかにお坊ちゃん殿さまでも、刃物の使い方くらい知ってただろうから、切りつけずに、体当たりをくわせ、脇差に体重をかけ肝臓の辺りを一突き、ぐさりとやれば、仕損じることなく仕留められた筈。眉の上と背中に切り傷しか与えられなかったのは、廊下で吉良を見て、突然むらむらと怨念がこみあげ、刀を抜いてしまったということなのだろう。
(つづく)

