1643年5月21日付けデカルトからエリザベートへの返事の続きです。
若き日のデカルト↑
Premièrement, je considère qu'il y a en nous certaines notions primitives, qui sont comme des originaux, sur le patron desquels nous formons toutes nos autres connaissances. Et il n'y a que fort peu de telles notions; car, après les plus générales, de l'être, du nombre, de la durée, etc., qui conviennent à tout ce que nous pouvons concevoir, nous n'avons, pour le corps en particulier, que la notion de l'extention, de laquelle suivent celles de la figure et du mouvement; et pour l'âme seule, nous n'avons que celle de la pensée, en laquelle sont comprises les perceptions de l'entendement et les inclinations de la volonté; enfin, pour l'âme et le corps ensemble, nous n'avons que celle de leur union, de laquelle dépend celle de la force qu'a l'âme de mouvoir le corps, et le corps d'agir sur l'âme, en causant ses sentiments et ses passions.
まず、私は私たちの内にはある種の基本的な概念があると考えます。この基本的な 概念はパトロンと呼ばれている原型、その上に私たちが他のすべての知識を形成する 型紙の原型のようなものですね。そしてこの基本的な概念は極めて僅かしかありません。 なぜなら、あとはずっと一般的な、存在とか、数とか、持続などといった概念だからです。 こうした概念は私たちが考案し得るあらゆることに適しています。特に身体にとっては、 私たちはそこから図形とか運動とかが導き出される延長の概念しか持ちません。また、 魂だけについては私たちは思考という概念しか持ちません。この思考の中には 理解力についての認識とか意欲の傾向が含まれますが。最後に、魂と身体の両方については、 私たちはこのふたつのものの結合という概念しか持ちません。この結合に伴う力 によって感情と情熱が引き起こされ、魂が身体を動かし身体が魂に反応を及ぼすと考えられます。
訳者(めのお)注: なるべく解りやすいように言葉を補いながら意訳しました。大事なのは中味だからです。哲学に素人のめのおは意訳するにあたっても notion とか perception とか l'entendement といった言葉がどうにも雲を掴むようにぼんやりしてますが、続けるうちに次第に分かるようになれと願いながら、やってます。
ここでデカルトははっきり、「魂と身体との結合」と言っていますね。
われわれ東洋人には聞きなれた言葉「心身一如」にデカルトも近づいてるのでしょうか?
もっとも、「一如」と文字通りにとれば「ごとし」なので「完全に同一じゃないけど、あたかもひとつであるかの如く」に振る舞え、闘え、演技せよ(羽生選手よ…)ってことでしょうか?
「心身一如」という言葉は禅僧の栄西が用いた言葉だそうで、「禅の瞑想における内的経験の高揚した状態をあらわすのだそうです。そこから能楽とか武術においてしばしば使われ、内面的瞑想と外面的行動の両者が向かう理想的境地を表す言葉として用いられた。
デカルトのこの日付の返信はまだ続きますが、今日はこれから家の傷んだ部位(物置の梁の一本が落ち天井画落っこちそうなので)修理に掛かります。なので次回に……。
(つづく)
