ローマによる支配 アーサー王伝説 その④ | 雷神トールのブログ

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イングランド全土の王、ウーゼル(ウーサー)・ペンドラゴンは「ブリタニア列王伝」ではコンスタンタン II 世の末っ子とされ、サクソン人の謀略で王位継承者の兄を殺され、若いウーサーもサクソンとの戦いを続けますが、一旦は敗れ、大陸側のブルターニュに亡命します。魔術師のメルランを伴い、アイルランドへストーンヘンジを運んだりした後、やがて態勢を立て直し、イングランドへ戻り、サクソンを追い払って王位に就きます。

 

 

「ブリタニア列王伝」は、前回触れたプランタジネット朝の始祖ヘンリー II 世の父の側近だったジェフリー・オブ・モンマスによって書かれました。ウーゼル(ウーサー)・ペンドラゴンの父とされる王、コンスタンタン II 世は筆者が調べた限りでは、スコットランドの王で900年から942年まで王位にあり、952年に没してゴルフで有名なセント・アンドリュースに葬られました。ハドリアヌスの壁の北側の原住民ピクト族とも友好関係を結び、ノルマン人やサクソン人と戦いました。

大ブリテン島はガリアと同じく紀元前50年にローマのカエサルの侵攻を受けました。120年頃、現在のエジンバラあたりの緯度に南北に分かつ壁が造られました。ハドリアヌスの壁は今も残っています。この壁から南側のケルト民族の一派をブリトン人と呼びます。壁の北側(現在のスコットランド)に住むピクト人やスコット人はローマの支配にたびたび反抗しました。410年以降、ローマはブリタニアから撤退しました。

 

さてウーゼル(ウーサー)・ペンドラゴン(Uther Pendragon ガリア語で Wthyr Pen Driaig または Bendragon)。いずれもドラゴンの頭(かしら)の意で、Pedrは完全な、Pennはチーフ、ヘッド、頭、 Drognは部族といった意味を持ちます。

今日でも、フランスの革命記念日、7月14日のパレードに欠かさず登場し、軍事パレ ードの興ざめな軍服姿の中に、鎧甲冑姿で堂々と騎馬に跨り華々しさを添えるのが近衛兵ですが、彼らをフランス人は「ドラゴン」と呼んでいます。

Dragonsには chevaliers、つまり騎兵隊の意味があります。ペンドラゴンはだから騎兵隊の長、司令官を意味したと考えられます。ジェフリー・オブ・モンマスが「ブリタニア列王伝」を書くよりもずっと前のガリア(ゴール)の詩に短いがペンドラゴンが出てきます。

一説によると、ブリタニア司令官で反乱軍を率いてローマに侵攻し、皇帝の座を奪い取ったマクシム。ガリアに渡り傭兵的な存在として活躍したリゴタムス。退役後も現地に残りサクソン人らの侵略者に対して戦い続けたルキウス・アルトリウス・カストウスらがアーサー王のモデルになったといわれています。

最近の映画ではAntoine Fugua 監督、2004年公開の米・アイルランド合作、クリーヴ・オウエン、 ケイラ・ナイトレイ主演の「King Arthur」がこのローマの血を引くブリタニア司令官説を基にしています。

 

 

 



(つづく)