第7章では「聖書の解釈について」と副題が付けられている通り、聖書の解釈はどのようにあるべきかが論じられています。
「最後に又、聖書をその幾多の個所に於いて改竄することを敢えてするあの冒神の徒たちはそうした罪深い行いを止め、彼らの不信の手をそうしたことから引っ込めたであろう。
然るに野心と冒涜の横行するところ、遂に宗教は聖霊の教えに服従することにでなくて人間の妄想を擁護することにあるの観を呈している。
否、宗教は愛には存せずして人間の間に不和の種を播いたり、激烈な憎しみ(之を彼らは聖なる熱意、烈しき献身と僭称する)を広めたりすることに存すると見られるに至っている。
これらの悪にかてて加えて迷信なるものがある。迷信は人間に理性と自然を軽蔑し、この両者に 矛盾することをのみ歎賞し尊敬するやうに教える。だから人々が聖書を益々歎賞し・尊敬するために、聖書をこの両者――理性と自然と――に最も矛盾するするがごとく解釈しようと力めるのも不思議ではない。
かくて彼らは聖書の中に深遠な秘儀が隠されていると夢想し、他の有益なことどもはさて措いて かうした不条理なものを探求することに精魂をつくす。そして彼らはその妄りに虚構するところを悉く聖霊に帰し、これをあらゆる暴力・あらゆる情熱を以って擁護しようと努力する。何故なら人間といふものは、純粋知性に依って考えることは専ら知性と理性に依ってのみ擁護し、これに反して 情熱に依って信ずることは情熱に依って擁護するやうに出来たものだからである。
かうした混迷から逃れ、神学的諸偏見から我々の精神を解放し、人間の妄想に過ぎないものを神の教えと軽信することのないようにする為に、我々は聖書を解釈する真の方法について論じ、これを充分説明せねばならぬ。」
スピノザは聖書の解釈は聖書によってのみ為されるべきであり、その方法は自然を解釈する方法と異ならないとと説く。
下巻に移って、第八章では、モーゼ五書ならびにヨシュア、士師、ルツ、サムエル、列王の諸巻がこれらの人々自身によって書かれたのではないことが示される。
「これらすべての書の帰結と題材に意を止めるなら、これらすべては一にして同一なる著者の手に成るものであって、この著者はユダヤ人たちの最初の起原から都市(エルサレム)の最初の滅亡に至るまでのユダヤ古代史を書こうとしてるのである。」
スピノザはそれ(一にして同一なる著者)はイブン・エズラであろうと推論する。
エズラは、モーゼの生涯および律法を、エズラの「同時代の人々にもっとわかりやすくするために 他の多くの個所を付け加え或は書き改めた。それゆえ申命記にある十誡は出埃及記にある十誡とは、違った表現様式をとっている。ことに第四誡は遥かに詳細に語られており、その根拠に至っては出埃及記のそれとは天地の相違がある。また申命記に於いては第十誡の説明の順序が出埃及記の場合とは大部異なっている。」
スピノザは「申命記こそエズラが注釈し・解明した神の律法の書であると考える。」
さらに「同書がエズラが書いたすべての書の中で一番最初のものであったと思ふ。」
申命記には民の最も必要とする国家の法律が書かれてあるからであり、また申命記には他のすべての書のようにその前にある書と何ら特別な結びつきをしておらず、直ちに「これはモーゼの言葉なり云々」の句を以って始まっているからである。
第八章の以下の最後の節がこの章全体を要約しているので引用します。
彼(エズラ)はこの書(申命記)を終えて民に律法を知らしめた後で、世界の創造から都市(エルサレム)の全的荒廃にいたるまでのヘブライ民族の全歴史を描くことに携わり、そしてその著作のしかるべき個所に申命記を挿入したものと思はれる。そしてその最初の五書の中には専らモーゼの生涯が書かれているので、この主要人物の名に因んでこれをモーゼ五書と名付けたのであらう。又同様の理由からかれは第六書にヨシュアの名を、第七書に士師の名を、第八書にルツの名を、第九書にそして恐らく第十書にもサムエルの名を、最後に第十一書と第十二書とに列王の名称をそれぞれ冠したのである。」
(神学・政治論第八章 岩波文庫 下巻31p)
