第六章「奇蹟について」から続いて引用させて頂きます。
*** ***
奇蹟からは何事かを結論することが出来るにしても、神の存在は決してそれからは結論されない。事実、奇蹟は限定された出来事であり、又限定された一定の能力を表現するにすぎないのであるから、我々は確かにさうした結果から無限の能力を持つ原因の存在を結論することは出来ず、精々結果より大なる能力を持つ原因を結論し得るのみである。
余は精々といふ。何故なら、同時に働く多数の原因に依って一つの出来事が――原因全体の能力よりは劣るが個々の原因の能力よりは遥かに大きな力乃至能力を持つ一つの出来事――が生ずるといふこともあり得るからである。
これに反して自然の諸法則は無数のものの上に及び、そしていわば永遠の観点の下に我々から思念されるから、又自然はそれらの法則に従い一定の不可変的秩序に依って進行するから、それらの諸法則はわれわれにその限りに於いて神の無限性、永遠性並びに不可変性をある程度に示してくれる。
かくの如くにして我々はこう結論する、我々は奇蹟に依っては神及び神の存在と摂理を認識することは出来ぬ、むしろそれらは確固にして不可変的な自然の秩序から遥かによく結論され得る、と。
奇蹟が自然の秩序を破壊乃至中断し或は自然の諸法則に矛盾するものと想定される限り、その限りに於いて奇蹟は何ら神への認識を与え得ないばかりでなく、更に我々が自然的に有する神への認識を奪い去り、我々をして神並びに一切事を疑わしめるからである。
奇蹟は、超自然的と見られたところで自然の外に起こるのではなく、自然の中に起こるのである以上、必ずや自然の秩序を、――本来は神の決定に基づいて確乎且つ不可変的であると我々の思念するその秩序を中断するからである。
故に若し自然の中に自然の諸法則の結果でないような何事かが生ずるとしたら、それは必然的に、神が自然の普遍的諸法則に依って自然の中に永遠的に設定した秩序に矛盾するだろう。だからそうしたものは自然と自然の諸法則とに反するのであり、従ってそうしたものを信じることは我々をして一切を疑わしめ・我々を無神論へ導くであろう。
聖書における奇蹟は、人間の把握力を超越すると思われる自然の業以外の何ものをも意味しないのである。
*** ***
今回はこれにて……
(*^ー^)ノ
