モーゼがユダヤの民を率いてエジプトを脱出する時にファラオンの軍勢が後を追って来て紅海に追い詰められた時にモーゼが祈ると海の水が割れ、民に逃げ道を与え、後を追って海底に降りたファラオンの軍勢は戦車ごと元に戻った海に呑み込まれた、というあの聖書の中でも最大の奇蹟についてスピノザはどういった解釈をしているのか? 興味をもって読み進めました。他にも聖書にはたくさんの奇蹟を示す逸話が至るところに書かれています。キリストが水の上を歩いたとか、盲目やライ病患者を治したとか。スピノザのこの本はそうした奇蹟をどう扱っているのか?
読んだところ、気が抜けるほど、こうも割り切っていいものか、とスピノザ一流の論理でもってばっさりと切り捨てています。つまり、この世界(宇宙、自然)の根本原理が神だ、というスピノザの考えは奇蹟に対しても微塵も変わらず、奇蹟と言うような神秘的に見える現象をもって敬神の念を掻き立て、神の存在の証拠とするようなことは逆効果であって神の存在をも疑わしめることになる。自然界の永遠不変の法則を知ることに依ってこそ人は神への畏敬の念を益々深めることになる、と。
大まかにいえば、そういった論理を展開しています。聖書に書かれた個々の奇蹟については深入りせず、ただ超自然的現象に見えても奇蹟は自然界の中で起こる事なのだから自然界の法則を変えたり一時的に止めたりして違う動きをしたり出来ない筈だ。奇蹟として伝承されていることは、ひとつにはヘブライ民族の昔からの表現の特殊性があるということ、さらに語り手によって物事は主観的に物語の中心となる人物に有利なように語られる。超自然現象と受け止められる出来事も聖書を良く読めばその普通でない出来事がいくつもの原因が重なり合って生じたことさらにさりげなくではあるがその原因とみられる自然現象が書かれている。たとえば海水が割れたとか元に戻ったとかについては強い東風が一晩中吹きまくったと書いてある、とスピノザは書きます。
(現代のフランスでもモンサンミシェルの海は潮の干満の速度が非常に速く、引き潮のときは 砂浜を歩けますが、満ちてくる潮の速さは馬のギャロップの速さなので人が呑み込まれる事故があります。潮の干満の差は月の位置と関係し、これに暴風などが重なれば、紅海でも深度の浅い部分では、誇張にしても人が通れるぐらいになるかもな? などと考えてしまいます。しかし紅海にはそんな浅い海はないようです。
近年、紅海のどの辺りをモーゼとユダヤの民が渡ったのか? を調査した人たちが居て、200万人が宿営できる地が確かにあり、それはヌウエイバと言う場所であること、周りが高い岩山に囲まれ聖書の記述と呼応すること、そこからの紅海は水深が500mほどで対岸のサウジアラビア川まで海底には岩もなく一貫してなだらかな斜面となり人が歩いて渡るに可能な地形であること、ダイビング調査をしたところサンゴに覆われた古代の戦車の車輪と車軸の形をした遺物が多数見つかったことなどが報告されています。
では、第六章を読んでみましょう。
(スピノザは、自然的原理がすなわち神であるとの認識から、奇蹟についてもそのように論理をすすめます。)
奇蹟を自然的原理に依っては説明され得ない出来事と仮定すれば、それは二様の意味に解される。
1.奇蹟は自然的原因を持ちはするがその自然的原因が人間の知性に依っては探求され得ないという意味。
2.奇蹟には神或は神の意志以外の如何なる原因をも認められないという意味。
然し自然的原因に依って生ずる一切はやはり神の能力と意志とに依ってのみ生ずるのであるから、これは結局次のようなことに帰着せざるを得ない、即ち奇蹟は自然的原因を持とうと持つまいと原因的には説明されない出来事、換言すれば人間の把握力を超越する出来事である、と。
然しそうした出来事から、つまり我々の把握力を超越する事からは何事をも我々は理解し得ない。何故なら、我々が明瞭且つ判然と理解する一切は、それ自体によってか、或はそれ自体に依って明瞭かつ判然と理解される他の事物によって我々に知られねばならないから。故に奇蹟から、即ち我々の把握力を超越する出来事からは、神の本質も存在も、否凡そ神と自然に関する如何なることも理解し得ない。反対に一切は神に依って決定され確立されること、自然の諸活動は神の本質から生ずること、自然の諸法則は神の永遠なる決定乃至意欲であること、そうした事どもを我々は
知っているから、我々は断然こう結論せねばならぬ。
我々は、自然的事物を益々よく認識するにつれて、又如何なる風に自然的事物がその第一原因に依存するかを、並びに如何なる風にそれが永遠なる自然の諸法則に従って活動するかを益々明瞭に理解するにつれて、益々よく神と神の意志とを認識し得るのである、と。
(この章つづく)
