スピノザ その⑬ エテイカ 7 定理32 | 雷神トールのブログ

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定理三十二

意志は自由原因ではなくて、必然的な原因としか呼ぶことができない。

証明

意志は知性と同じようにたんに思惟のある様態にすぎない。したがって(定理二十八により)おのおのの意志は、他の原因からでなければ、存在することも作用へと決定されることもできない。この原因もまた他の原因によって決定され、このように無限に進む。もし意志が無限であると仮定されても、それは絶対無限の実体であるかぎりの神によってではなく、思惟の無限・永遠の本質を表現する属性をもっているかぎりの、神から存在や作用へと決定されなければならない(定理二十三による)。それゆえ意志は、どのように考えても、つまり有限であろうと無限であろうと、存在や作用へと決定されるためには原因を必要とする。したがって(定義七により)意志は自由原因ではなく、たんに必然的な原因あるいは強制された原因としかよぶことができない。かくてこの定理は証明された。

 

 


Proposition  32
La volonté ne peut être appelée cause libre; mais seulement cause nécessaire.

Démonstration :
La volonté n'est autre chose qu'un certain mode de penser, comme l'entendement. Par conséquent(en vertu de la Proposition 28) une volition quelconque ne peut exister ni être déterminée à l'action que par une autre cause, et celle-ci par une autre, et ainsi à l'infini.
Que si vous supposez la volonté infinie, elle doit toujours être déterminée à exister et à agir par Dieu, non sans doute par Dieu en tant que substance absolument infinie, mais en tant qu'il a un attribut qui exprime l'essence infinie et éternelle de la pensée (par la Proposition 23).
Ainsi donc, de quelque façon que l'on conçoive la pensée, comme finie ou comme infinie, elle demande une cause qui la détermine à l'existence et à l'action; et par conséquent (en vertu de la Définition 7), elle ne peut être appelée cause libre, mais seulement cause nécessaire ou contrainte.  C.Q.F.D. 

 

 


<フランス語テキストについての注>

l'entendement=悟性とも訳せる

une volition=哲学用語で意志、意欲。

仏教では「思」心所の一。 ラテン語 volo (velle 「欲する」vouloir の起源となる語)。

en vertu de qc  =……によって、の結果として、に従って、の名において

エテイカに繰り返し出てくる C.Q.F.D.

フランス語訳のテキストには C.Q.F.D. と記されている。

和訳は: 「かくてこの定理は証明された。」: これは、数学の問題を解いた最後に書く決まり文句、ce qu'il fallait démontrer の頭文字をとった表記。
これに対し Q. E. D. と書かれている場合もある。これは、ラテン語  quod erat demonstrandum の略で、「これが証明されるべきことであった」


<批評>

スピノザは、汎神論的唯一実体説に立って一切の出来事の生起の論理的必然性を主張するとともに、自由意志論を「国家の中の国家」を主張するがごとき論であるとして斥けた。

スピノザにおいて、実体はただ神のみであり、「精神と物体(身体)は神という一つのものを別々の側面から捉えて見たものにすぎない」とした。

精神と物体(身体)は相互に平行していて対応するが,両者は互いに影響を及ぼし合うものではなく、物的(身体的)事象はあくまで他の物的(身体的)事象とのみ影響しあい,心的事象は他の心的事象とのみ影響しあうのだとした。

精神と身体が別系統のものであって、両者に相互作用が認められないのだとすると、精神が身体に影響を及ぼすことは考えられないのだから、人間が何かを意志して何かを行なうという考え方そのものが成立しないことになる。

ここは、「自由」にたいして大いなる幻想を抱いている現代人のわれわれにとって甚だ残念に思われる観方で、精神と身体の間に相互作用を認められない、のは経験的にも承服しがたいと感じる。

極端にみれば、たとえばパソコンを開こうとする私の意志と、手と指を使ってパスワードを入力する行為とは関係が無い、ということになる。

しかし、スピノザが言いたかったのは、そんな卑近なことではなく、「意志と行為とのあいだには因果関係はなく、両者はどちらも神を原因として同時に平行して起こった事象にすぎない」ということ。

つまり、スピノザにとっては「神とはなにも超自然的な、世界の外にあって世界を創造した存在ではなく、この世界そのものであり、人間もこの世界の一部、つまり神の一部なのだ」、ということ。

 

そして面白いのは、唯一絶対の実体としての神と「かぎりの神」を考えたということ。
それは「絶対無限の実体であるかぎりの神ではなく、属性をもっているかぎりの、神」であり、思惟のひとつの現れである意志もその「かぎりの神」から存在や作用へと決定される原因を必要とするのであって、その原因は「自由原因ではなく、たんに必然的な原因あるいは強制された原因としかよぶことができない」として行為の原因としての自由意志を否定したのだった。

別の言い方をすると、スピノザの考えは、
「神は世界全体であり、それが唯一の実体である。すべてのものが神の一部であり、人間もまた神の一部である。すべてのものは神から流出したものであり、世界のすべては神(実体)が姿を変えたもの(様態)である。この世には、神の働き(自然因果性)だけがある。したがって、人間の自由意志は否定される」

「人間が自由な存在だと思うのは、自然法則の必然性を完全に知りえないことによる、自己錯覚にすぎない」、ということになる。


「自由意志」の問題は、西洋の哲学史全体を貫き、さらに、仏教の「自力」「他力」本願とも絡んで、もっともっと考察を重ねたいと思うので、これで御終いということはなく今後も続けたいと思います。

  (つづく)

 

  ヽ(;´Д`)ノ