スピノザ その⑪ エテイカ 6 神=自然の定理 | 雷神トールのブログ

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トリウム発電について考える

定理 一  その本性からみれば、実体は変様に先だっている。

  <証明> このことは定義三と五から明らかである。

 

 

 

 

定理 二  異なる属性をもつ二つの実体は、たがいに共通なものをもたない。

  <証明> このことも定義三から明らかである。なぜなら、どの実体もそれ自身において存在し、それ自身によって考えられなければならないからである。言いかえれば、ある実体の概念には、他の実体の概念がふくまれないからである。



定理 三  たがいに共通なものをもたないものは、たがいに他の原因となることができない。

  <証明> たがいに共通なものをもたなければ、(公理五により)たがいに理解しあうことができない。したがって、(公理四により)たがいに他の原因となることができない。かくてこの定理は証明された。


定理 四  異なる二つあるいは多くのものが互いに区別されるのは実体の属性の相違によるか、それとも属性の変様の相違による。

  <証明> 存在するものはすべて、それ自身のうちにあるか、それとも他のもののうちにある(公理一による)。言いかえれば(定義三と五により)知性以外には実体とその変様しか存在しない。それゆえ、多くのものを互いに区別できるものは、知性のほかには、実体あるいは同じことであるが(定義四により)その属性(注1)、そしてその属性の変様しか存在しない。かくてこの定理は証明された。
  
 (注1:属性は実体と様態とのあいだの中間者ではなく、実体と同一視されている。これは属性が実体の本質を構成するものと考えられている以上、当然であろう。)


定理 五  自然のうちには、同じ本性あるいは同じ属性をもつ二つあるいは多くの実体は存在することができない。

  <証明> もし多くの異なる実体が存在するならば、それは属性の相違によるか、それとも変様の相違によって、たがいに区別されなければならない(前定理による)。もし属性の相違のみによって区別されるならば、同じ属性をもつ実体は一つしか存在しないことが認められるであろう。だが、もし変様の相違によって区別されるならば、実体は本性上その変様に先だっているため(定理一により)、変様を度外視し、実体をそれ自身において見るとき、言いかえれば、(定義三と公理六により)実体を真に考察するとき、実体が他から区別される事は考えられないであろう。すなわち、(前定理により)同じ本性あるいは同じ属性をもつ実体は多数ではなく、ただ一つしか存在しえないであろう。かくてこの定理は証明された。


こんなふうにしてエテカの第一部 「神について」は続きます。全部をここに筆写するのは徒労なので核心的なところだけ引用します。またフランス語訳の併記も今回はやめます。

めのおが読んだ範囲で核心部と思われるのは定理十四です。上の定理五を援用しながらスピノザの汎神論すなわち自然の唯一の実体は絶対無限である神である(自然と神=実体が同一である) ことを主張します。キリスト教の哲学において自然は神の被造物でしたが、スピノザの哲学では神即自然なのです。

 

 

定理 十四 神以外にはいかなる実体も存在しえないし、また考えることもできない。

  <証明> 神は、実体の本質を表現するあらゆる属性が帰せられる絶対無限の存在である(定義六による)、しかも神は必然的に存在するから(定理十一による)もし神のほかになんらかの実体が存在するならば、それは神のある属性によって説明されなければならないであろう。そうすれば同じ属性をもつ二つの実体が存在することになろう。だがこのことは(定理五により)不条理である。したがって、神以外のいかなる実体も存在しえないし、また考えることもできない。なぜなら、もしそのような実体が考えられるならば、それは必然的に存在するものとして考えられなければならないであろう。しかしこのことも(この証明の最初の部分により)不条理である。それゆえ、神以外にいかなる実体も存在しえないし、また考えることもできない。かくてこの定理は証明された。

 <系 一> このことから次のことがきわめて明瞭に帰結されてくる。まず第一に、神が唯一のものであること、言いかえれば(定義六により)自然の中にはただ一つの実体しか存在しない、しかもそれは絶対無限であるということである。このことは定理十の注解においてすでにほのめかしたとおりである。

 <系 二> 第二の帰結は、延長するものや思惟するものは、神の属性であるか、それとも(公理一により)神の属性の変様であるか、のどちらかであるということである。


定理十五 存在するものはすべて神のうちにある。そしていかなるものも神なしには存在しえないし、また考えられることもできない。

  <証明> ここでは略します

  (注解) 神が人間のように身体と精神をもち、感情に隷属していると想像するひとたちがいる。
(めのおの注:ギリシャ・ローマの神話はほとんどが人間と同じ姿をし、人間の心理が拡大誇張されたような行いをする。)しかし、彼らが神の真の認識からいかにはなれているかは、すでに証明したことから十分に明らかである。私は彼らの意見をとりあげない。なぜなら、神の本性について少しでも思いめぐらしたことのある人々は、みな神が身体をもっていることを否定するからである。彼らはまたこのことを次のような論拠からもっともよく証明している。すなわち、物体とは、長さ、幅、深さをもち、一定の形に限定されたある何らかの量のことであって、これを、神つまり絶対無限の存在について論ずることほど不条理なことはないのである。

 

 

    (*^o^*)