「コレギアント」の前に、ファン・デン・エンデンについて書いておこう。ファン・デン・エンデンはスピノザがユダヤ教団から破門され、父から受け継いだ商会を畳んで無一文となった時期にスピノザを引き取り家に置いて、ときには授業の代役をさせたという所伝もあるほどで、ただのラテン語教師とその生徒の関係に留まらなかった。
ファン・デン・エンデンは1602年にアントワープに生れ、1916年から33年まではイエズス会に属していたが、公然と「汎神論者」を称したためそこを追放された。当時汎神論は無神論に通じるものだった。1645年にはアムステルダムに移住し、そこで書籍業を営んでいたが失敗し、52年にラテン語学校を開いた。しかしラテン語は生活のための世過ぎにすぎず、真の意図は新しい政治的社会のヴィジョンの播布にあった。革新の情熱に満ち溢れていた若きスピノザは、ファン・デン・エンデンと共鳴するところが多くあった。
1671年エンデンはフランスのノルマンデイーに来て「シュヴァリエ・ド・ローアンの陰謀(別名ラトレオモンの陰謀 Le complot de Latréaumont)」に参画、その理論的指導者となるが陰謀は些細な手抜かりから事前に発覚し参加者は全員逮捕され、処刑(貴族は斬首、エンデンなど平民は絞首刑に)されてしまった。
騎士ロアンの処刑↑
その陰謀というのは、フランスの絶対主義国王ルイ14世を倒して国民議会を招集する。その目的達成のためスペインの武力介入を受け入れる、というものだった。
ファン・デン・エンデンの手記「政府計画」には、「オランダ人民国家」建設の構想が描かれている。
「すべての者の統一と努力によって、一般的自由と繁栄に至る、無敵の常に繁栄し、常に進歩するオランダ人民国家」の建設計画だった。
「市民はそれぞれの地区に集合して政府を組織する。その政府は人民によって変改しうる法律に従って支配すること。600人からなる軍事会議は革命をまもる防衛力を準備し、市民議会の選挙を管理する。市民議会は社会改革の設定に進む。
寡婦、孤児、貧窮家族の保護、工場の建設、機械技術の向上、伝染病対策、などを記し、教育については、すべての児童に美術教育が施され、自由の意味が教えられるべきこと、既婚者を援助する立法処置を規定し、市民は人民の権利の擁護者たるべきこと、21歳以上で3年間軍隊勤務をした者はだれでも市民たること、投票は無記名とし、平和を共和国の外交の目標とすべきこと、すべての市民は自由の真摯な擁護者たるべく、宗教的政治的問題を交えないかぎり、カトリックたるとプロテスタントたるを問わず平等であること」などが主張されていた。
「ラトレオモンの陰謀」はルイ14世の絶対王政下にあった唯一の反乱計画で、1789年のフランス大革命に先立つこと115年、最初の共和国建設を目指す計画は首謀者たちの逮捕と処刑により実行前にあえなく鎮圧されてしまったのだった。
アムステルダムに居たファン・デン・エンデンがなぜフランスのノルマンデイーに共和国建設を? と疑念が沸くので、その間の事情をできるだけ簡単に記す。
ルイ14世がまだ幼少の頃、起こった「フロンドの乱」は、宰相マザランがスペインとの戦争を継続するために商人への課税を挙げたために最初はパリの商人たちの反乱として起こった。
同様に農民も課税の上昇に反抗し「木靴を穿いた者たちの反乱 la Révolts des Sabotiers」が1659年に起こり少数の貴族(その首謀者ボンヌソン侯爵)が参加したが鎮圧されパリで斬首刑に処された。
処刑を逃れたもう一人の貴族、ジル・デユアメル・ド・ラテオモンは再度反乱の機会を狙い、アムステルダムに移住した。
ド・ラテオモンはアムステルダムでギッシュ公爵( Comte de Guiche )と知り合い、二人はファン・デン・エンデンのラテン語講義を聴講し、そこで平等思想、知識は少数のエリートに独占されるべきでなく大衆教育の必要を説くエンデンに共鳴、親交を深めた。
1671年、エンデンはアムステルダムを去りパリに落ち着き、ド・ラテオモンとギッシュ公爵を呼び寄せ、ピクピュス街に寄宿制のラテン語学校を開く。
1672年、ルイ14世はネーデルランド(低地地方)の諸州連合に対し宣戦を布告。この戦争は①王妃マリー・テレーズ・ド-トリッシュのの領有権がスペインにより侵されているのを取り戻すため。②フロンドの乱で活躍した二人の元帥、大コンデ公とチュレンヌの威光をルイ14世自らの軍事的功績により覆い隠すこと。③プロテスタント共和国が多数の政治的対立者の隠れ家となり、フランス国王を 公然と侮蔑していることを罰する、などの動機から行われた。
ド・ラテオモンは友人のルイ・ド・ロアン(別名シュヴァリエ(騎士)ロアン、彼はまたルイ14世の幼少の御付き、いわば幼馴染でもあった)とノルマンデイー地方の諸貴族の陰謀に関心を寄せた。この陰謀はマザランの後コルベールにより科せられた材木・薪への税金を従来の倍払へ、という命令に反抗するものだった。
ノルマンデイー地方に、ルイ14世の絶対王政、中央集権に反対し共和国を建設する計画が練られ、ファン・デン・エンデンに共和国憲法の草案を書くことが委ねられた。
国王ルイ14世が北方の戦場に出張ってる間、王太子がノルマンデイーに狼狩りに来た。反乱側は王太子を捕虜にし、身代金として武器、兵隊、金のほか、多数のノルマンデイーの港、まずキルブッフ Quillebeuf、アベヴィル Abbeville、ル・アーヴル Le Havre をついでオンフルール、デイエップをスペイン・オランダに開港せよ、と要求した。
国王ルイには三銃士で有名な親衛隊がいた。かつて親衛隊員だったが 失業中のジャン・シャルル・デユ・コゼ Cauzé という男がパリ・ピクピュス街のエンデンの寄宿舎に住んでいた。そこへ騎士ロアンのような大貴族が繁く訪れることに不審を抱いたジャンは、エンデンがブラッセルにスペインの協力を依頼しに行って留守の間、(1674年8月31日~9月17日)、国王の大臣に不審な集会と討論が行われている、と密告した。
9月11日、ルイ14世は謀議参加者を逮捕させる。ロアンはヴェルサイユでのミサに参列しそこを出た所で逮捕、ラトレオモンはルーアンのホテルの部屋で逮捕された。ファン・デン・エンデンはブラッセルへの使いを終えパリに帰った9月17日、逃亡しようとするところをフランス軍人に逮捕された。
バスチーユ監獄に投獄、尋問を受け、「国王に対する反逆罪」で全員死刑の判決が下され、貴族は斬首刑、エンデンなど平民は絞首刑(首吊り)に処された。
(以上 下村寅太郎氏の解説とウイキペデイア・フランス語版に拠りました)
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