今朝は初霜で庭の芝生は真っ白。昨日、夾竹桃と椿の鉢植えを温室に移動しておいて良かった。間一髪でした。
来年の夏の話になりますが、昔パリで知り合った画家の友達がご夫婦で遊びに来る予定で、観たい所は? と訊くと、バルザックの「谷間の百合」の舞台となったロワール河の支流アンドル(Indre)川やヴィエンヌ川(Vienne) などトウールの南側の地方、それに日本人画家と縁の深いグレッツ・シュル・ロワン(Grez sur Loing、日本では グレ・シュル・ロワンと発音されることあり)をまた一緒に訪問したい、と。
グレ・シュル・ロワンの洗濯場↑
前回の投稿と関係しますが、外国を舞台に日本語で小説を書く時に、悩むのは固有名詞。
街の名前、通りの名前、川、橋など日本人の読者向けに書く時に、迷ってしまう。
まずカタカナ表記の問題。ヴとブ、ヴェルサイユとすべきかベルサイユと書くべきか。現地に住んでる者としては現地人の発音どおりヴェルサイユとしたいですが、日本ではベルサイユが一般的、と編集者に訂正を迫られたことがあります。
河の名前。セーヌ河はパリと切っても切れず結びついてますが、英仏海峡に注ぐ河口にある港町ル・アーヴル近辺の景色は日本人には馴染がないので、ノルマンデイー橋くらいはいいとして、タンカルヴィル橋とかなると、どの辺にあるかなど見当がつかないに相違ありません。漠然とでもいいからどの辺かぐらいの見当がついたり、イメージが湧いたりしないと固有名詞というものは記憶に残らないのじゃないか。
行ったことのない土地の名前を聞いただけではなんのイメージも浮かばず感興もわかない。そんな名前はいわばどうだっていいことなのだ。
構造主義の父と見做されているスイスの言語学者、ソシュールが「arbre」という言葉と「木」という現実とは何の関係もない、と喝破したように、現実のセーヌを見たことがない人にとってはセーヌという音に耳を傾け空想を働かせるだけだろうと思う。
セーヌの支流にヨンヌ川とロワン川がありフォンテンヌブローの近くでセーヌと合流する、と書いても、現場を知らない人には、なんの意味も感興も生じないに違いない。東京新宿に生まれ育ち、関東地方の河川の名前ぐらいは知ってる積りでいためのおも去年の反乱まで鬼怒川が利根川の支流だなんて知らなかったくらいだから。
ロワン川はめのおが住むサンファルジョーのすぐ近くに水源があり、サンファルジョーを横切るこの川は幅2メートルにも満たない小川。東京でいえば玉川上水とか神田川とかいえば近いかな?
ロワン川は40kmほど下流に行くとモンタルジスという比較的大きな町を潤し、昨年は洪水でこの町も水で浸した。 さらに下流に行くと、モンテイニー・シュル・ロワンと
モレ・シュル・ロワン、そしてグレッツ・シュル・ロワンという小さいが昔の風情を残した町を通る。モレ・シュル・ロワンは印象派の画家で英国人のシスレーが晩年に住み、ロワン川に懸る橋と教会、運河の風景画を沢山残し、この町で死んだ。
グレッツ・シュル・ロワンは明治・大正期に日本から何人もの画家が訪れ滞在した町。黒田清輝が有名で、この町の通りの名前に「Kuroda 」と取り上げられ
残っている。浅井忠は黒田よりずっと長くここに滞在した。
浅井忠が描いたグレ・シュル・ロワンの塔↑
この辺のことは次のブログに詳しいのでご興味ある方はどうぞ→http://bellano.cocolog-nifty.com/blog/cat23541869/index.html
ロワン川はロワール河と音が似てるので混同されやすいのかもしれないが、フランス語の綴りは Le Loing で一方の有名なロワール河は La Loire と女性形なのでフランス人は混同しようがない。
さらに細かいことをいうと同じロワール川で、ヴァンドームとかデカルトと縁の深いラ・フレッシュとかの町を通るロワールは男性形で Le Loire があり、大河のラ・ロワールの支流で、アンジェの街の直前で合流します。
大河のロワールはフランスを代表するフランス随一の大河で、数多くのロワールのシャトー、ロンサールやラブレーやバルザックなどフランスの文化の根拠地でもあります。
ロワール河は有名なので、フランスと言えばロワールと音が関連して出てしまうかもしれません。セーヌよりも大きな川がセーヌの支流だなどと言い得ませんが、現実がどうあれ、音と結びついたなんとない雰囲気、が大切なのであって、それを幻想だ、間違いだと打ち消すことは、余計なことであり、嫌味たらしい行為ととられても仕方がないかも知れません。
めのおが着いた当時のパリと40年を経た現在のパリとは世情、人情が変わってしまったし、イヴ・モンタンやジュリエット・グレコのが歌った「枯葉 (Les Feuilles mortes )」のイメージに惹かれそれを求めて今のパリを見れば、枯葉はエンジン送風機で吹き飛ばして集め、雰囲気はまるきり無い。同じように、プロヴァンス地方に魅せられて訪れたら、「旅する人 (gens de voyage、今はかつてジタンと呼んでいたのは差別用語だからこう呼ぶと決められてます)」やイタリアからの出張スリ・万引きにごっそり持ってかれてせっかくの旅が台無しになる。ラヴェンダー畑を見たくて、ガイドブックにバスがあると書いてあるのを真に受けて待てど暮らせどバスは出ずに、とうとう1週間田舎の小さな村に釘付けになってた、なんてことも実話であるくらいです。
憧れは今の現実よりより好い現実に生きたいとか、今いる現実から逃げ出したいとか、人間が持つ基本的欲望だと思うので、「憧れ」を一概に否定することは、現実変革のモチベーション、エネルギーを奪う事にもなるので、避けたいとは思うのですが、一方で、みすみす幻滅を味あわせるのも非情かなと思いますので……。
( p_q)

