Hans Hartung ハンス・アルトウングについて (昨日6月24日の記事の続き)
1904年、ライプチッヒ Leipzig に生れる。
幼い頃すでに絵画的志向を示した。6歳の時、雷が鳴り、稲妻が空を切る様を観察し学校用ノートにデッサンした。
天文学と写真に興味を抱き、自分で望遠鏡を作り天体を観測し、「現実の断片」としての抽象的ヴィジョンに魅せられた。
1925と26年(21歳と22歳)にドレスデン美術学校でカンデインスキーが行った講演を聴講して感銘を受けた。
めのおが特に興味をもつのは、アルトウングが学生時代の夏、自転車でイタリアを旅行したということ。帰りにパリまで来て、そこに居着き、1931年まで滞在した。
この時代、若い学生の間で一種の流行だったらしく、サルトルとボーヴォワールも自転車でパリから南仏まで行っている。
ナチスが抬頭するにつれ、ドイツに居ずらくなり、父親が死んだこともあって、ドイツを去りバレアルス諸島に移住、後にメノルカ島に住んだ。
1934年最終的にパリに落ち着いた。パリでカンデインスキー、モンドリアン、ミロ、カルダーなどと知り合った。
1934年と38年に個展を開き「インクの染み」シリーズを発表。
ドイツ大使館によりパスポートを没収され、アンリ・ゲッツの援助で彫刻家ジュリオ・ゴンザレスのアトリエで働く。
1939年、アルトウングは、ヒトラー・ナチスに反対する有志連盟に加盟登録した。
ゲシュタポの追跡リストにマークされ、ナチスに協力するフランス警察に逮捕され7か月も独房に監禁された。
ハンスが画家と知ったフランス警察はひどい話だけど、独房の壁の四面を真っ赤に塗った中に押し込め、色彩感覚を狂わそうとした。
まったく、むごいことをするね。
釈放後、アルトウングはフランスのレジスタンス外人部隊に入隊し、北アフリカの戦線へ出てナチスドイツ軍との戦闘に参加した。
その後フランス本土へ来てやはりドイツ軍と闘い、ベルフォールというスイスに近い街の近郊で戦闘中に右足を負傷し、切断しなければならなかった。
ドイツ人でありながらナチスドイツと戦った数少ない人間の一人だ。
終戦とともにフランスから十字勲章を授与され、フランス国籍を獲得した。
1960年ヴェニス・ビエンナーレでグランプリを獲得し、現代絵画の巨匠として国際的に認められた。
描くという行為は素材の持つ抵抗力との闘いを通じて行われると思う。
芸術としての絵画は、単に美術品として床の間に飾られ観賞されるためだけのものではなく、あるヴィジョンなり思想なりが表現されていなければならない。そこには人間の認識能力の一環としてのヴィジュアルな視覚的な認識能力の未開拓な領域の発見と定着によってはじめて絵画が創造(クリエイテイヴなもの)として認められると考える。
コンピューター絵画は手段として新しい道具をわれわれに提供した。しかしまだまだそれは「お絵描き」の段階に留まって、新たな認識能力の開拓といった真の創造性には達していないように思える。
ハンス・アルトウングは1924年にドレスデンに住み、レンブラント、ゴヤ、フランス・ハルス、エル・グレコなど古典的巨匠やオスカー・ココシュカなどドイツ表現派などを研究。これらの画家の作品を自己流に単純化しながら模写した。すでにこの頃から
抽象絵画への志向と黒い線が現れている。
その後、ライプチヒに移住し、古典文学、哲学、芸術史を学び、フランスの印象派とキュビスム(立体派)を発見した。そしてこの夏に自転車でイタリアを旅行し、パリまで北上してパリに1931年(27歳)まで住みついたのだった。
その間、南仏のペルピニャンの近くバルカレス Barcares という村に住み、ベルギー、オランダを旅行。ノルウエー出身の女流画家アンナ・エヴァ・ベルクマン Anna-Eva-Bergman と出合い、1929年9月に結婚している。
絵の具にアクリルやヴィニール絵の具を使ったり、絵筆以外に、様々な道具を自分で考えて作った。幅広のブラシ、エア・ブラシ、印刷工や版画家が使うローラー、ジュネ(5月に黄色い花をつける灌木)の枝を束ねた箒など……。
ある時期には「アンフォルメル」の旗手だったり、ある時期には「アクション・ペインテイング」の先駆けと見做されもした。
晩年になり、南仏アンテイーヴの近くのオリーブ畑に、アルトウングはエヴァと共に購入した土地に自らデザインしたモダンなアトリエを建て、1972年からふたりはそこに住みながら制作した。
今日、そこに二人の画業を記すさまざまなオブジェが保存されており、「アルトウング・ベルクマン財団」Fondation Hartung-Bergmanとして残っている。
(注:Web サイトからお借りし記事の中に配置した画像は、アトランダムに並べただけで、前後のテキストとの密接な関係はございません)
(`(エ)´)ノ_彡




