パスカルとジャンセンを引き合いに出した3つの理由 | 雷神トールのブログ

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トリウム発電について考える

昨日の投稿に牛山馬男さんが詳しいコメントをくださいました。

現代詩と舞台芸術の分野のプロと敬愛していた牛山さんでしたが、パスカルやモンテーニュをめのおとは比べようがないほど深く読んでおられ、いっそうの敬意を覚えました。ありがとうございます。

前回の記事でパスカルを持ち出したのは、「ジャンセニズム」を引き合いに出したいがためでした。

パスカルもジャンセニズムもめのおは半可通、名前を知ってる程度の知識で、引き合いに出して良いものか? 投稿記事に書くなどおこがましいではないか、とも思ったのでしたが、体力、知力ともに衰え学ぶ努力を怠りがちなこの頃、半ば自分を強制するために敢て冒険を犯した次第です。

ジャンセンを引き合いに出した理由は3つあります。

ひとつは、昨日もパリのノートルダム寺院の前で警官が「シリアのためだ」と叫びながらハンマーと包丁で武装した若者に襲撃され、連れの警官に寄り撃たれて重傷を負い入院する事件があり、ノートルダム寺院に居た600人ほどの人が避難させられました。あとで詳しく述べますが、近年欧米自由主義社会を脅かしている「イスラム過激派によるテロ」、彼らテロリストが命と引き換えに欧米社会の無辜の市民を殺傷する行為、彼らをテロに走らせる動機には欧米の自由主義社会への否定、異議申し立てがあり、それは欧米社会が16~17世紀にすでに経験した「自由意志と恩寵(または救済)」の問題と共通部分がありはしないか? という仮説。

 

 

ふたつめは、めのおが昨年秋から書き直しを進めている小説の重要なエレメントに絵画があるのですが、なかでも15~16世紀のネーデルランド、フランドル、ブラバントの画家、とりわけボッシュと彼に影響を受けたピーター・ブリューゲルに関し、考察を深めたかったからでした。ボッシュは地獄や悪魔を描きますが、後輩のブリューゲルはルネッサンス人で農村共同社会や人間の行為に楽観的でした。P.ブリューゲルの一枚の絵を良く見てるうちに、ある疑問が生じたのです。それがジャンセンが出た17世紀と彼の影響を受けた人がこのブリューゲルの絵に手を加えたのではあるまいか? とはなはだ茫洋とした仮説ですが、他にこれといった事実がどこにも示されていないので、自分なりに仮説を立ててみたのでした。

みっつめは、めのおの思春期の心の変化と関係します。これも全部書くと長くなりますが、主なところを挙げると以下のようになります。

めのおが若い頃(1962年10~11月めのおが18歳の時)キューバ危機があり、すわ米ソ間に核戦争が始まり地球が壊滅、いよいよ人類が滅亡への道を辿るのか? SFの世界が現実に明日にも起こる瀬戸際の恐怖が全世界の人々の間を駆け抜けました。

思春期の過剰なまでの感受性はちょっとしたことにも恐怖を覚えたものです。ちょうどラ・フォンテーヌが描いた巣穴の中の野兎のように。

太陽よりも明るい強烈な閃光が地上のあらゆる物質を貫き、爆風が建物を薙ぎ倒し、人間は瞬時に蒸発して影だけが地面に焼き付き、魂は微粒子となった肉体とともに宇宙の彼方へ雲散霧消してしまうのか、そんなイメージがたびたび頭の中を 満たしそのたびに恐怖に押しひしがれたようになるのでした。60年の改定安保条約反対デモの呼びかけの集会で、その時めのおは高校に入学したばかりの1年生の5月でしたが、教室に貼られた大きな紙に東京の上空にキノコ雲が立つ絵が描いてあり、「日本には米軍の基地がたくさんあり、安保条約によりアメリカの軍事同盟国となり、中共やソ連と戦争にでもなれば、核ミサイルが横田や立川などの基地に飛んでくる恐れがある」と脅かしました。めのおはその時覚えた恐怖を根底に抱いて国会デモに参加したのでした。

思春期のそんな時期にそれまで持ったことが無かったある自覚を覚えました。それまで疑ってみなかった理科や数学が得意でそのことを無反省に得意になっていた。そんな今までの自分に自己嫌悪を覚え、それまで好きだった数学と理科を憎悪するまでになってしまった。物理学が核兵器を生み、物理学の基礎にあるのが数学だから。理工系に進みエンジニアになるという子供の頃信じて疑わなかった道を方向転換したのでした。

初めての社会参加と並行して、唯物論か唯心論か? の哲学的課題と、母親に連れて行かれた日蓮正宗のお寺で受けたご受戒を破って信心を捨てようと決めた時に、「この教えを捨てたものは頭八裂七分」という怖い戒めの言葉が意識に上り、ほんとうにキチガイになってしまうのでは? と恐怖に襲われたものでした。信心は捨てたものの「唯物論者」になれたかというとそうはゆかず「霊魂はあるのか?」とか「死んだ後どうなるんだろ?」と多少スピリチュアルな世界に未練を抱いてもいたのでした。

生活のため、暮らして行くために企業で働き、高度経済成長期にはガムシャラに働く先輩たちに倣って金儲けと利益拡大は当然とばかり徹夜も辞さない働きぶりでした。

日本の高度経済成長期からバブルがはじける90年代前半までは、ガムシャラに富と成長を追いかけ、かつての大英帝国のヴィクトリア期を凌ぐほど世界一の金持ちになった、と企業人は誇りを隠しませんでした。めのおは「金持ちになったくらいで自己満足してるお前らいまに罰があたるぞ」と秘かに思ったものです。

めのおの心のどこかには、人間の飽くことない富の追求と限りない成長への意志を全面的に肯定できないペシミストがいます。そんな物質的な豊かさよりも内面の充実を大切にしたいと心が動きます。

上のような恐怖は理性による理解の範囲を超えたものです。

原発推進派の人は反対派の人々が一様に持つ恐怖を不合理な「漠然とした感情に基づく理由のない恐怖」によって原発に反対するのは間違っていると嘲笑し非難します。福島第一の悲劇により、こうした恐怖が根拠のないものではなかったことが明らかになった。今では、合理的な推論によっても原発が必要以上の熱を発し海水を無駄に温めるだけの非常に効率の悪い、しかも寿命が終わったあとまでも膨大な量の放射性廃棄物を残す将来の世代に「ツケ」を残す「悪しき設備」だと判ってきています。

 

推進派の主張するように「クリーンで安いエネルギー源」だとかはウソっぱちで、ただ造ってしまった、せっかくあるのだ、もったいないから続けよう、というだらしのない単に思考停止の保守主義に過ぎない。

あるいは裏に、いざという時に核兵器が造れるよう、表向きは非核三原則、裏で核サイクルの研究を続けるというダブル思考なのでしょうか?

千倍も安全で格安な、CO2を排出しない「トリウム原子炉」があるという事実に目を向けず探ろうともしない、日本の科学技術者の退廃・怠慢をここに見ることができると思います。

反原発運動の纏め役になろうとされている元首相の小泉さんも「日本は原発を続けるべきじゃない」と「直感的」に考えたと言っておられます。

恐怖とか危険に対する人間の感情、感覚は直感的な非理性的な不条理なものだと思います。だからといってそうした反応が間違っているとは言えないと思うのです。

 

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