デカルトの「動物機械」論に反対のラ・フォンテーヌ | 雷神トールのブログ

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ウエブ・サイトのシャトー・チエリー「ラ・フォンテーヌ記念館」のサイトに
興味深い記事が載っているのでご紹介します。

Link : http://www.musee-jean-de-la-fontaine.fr/UserFiles/ressources-peda/Musee-jean-de-la-fontaine-Les-animaux.pdf

 

フランスの17世紀、ラ・フォンテーヌとほぼ同世代(デカルト1596生まれ、ラ・フォンテーヌ1621年生まれ)の哲学者デカルトは1637年に発表した「方法序説」のなかで「動物は思考ができず身体の各器官の能力に応じて自然が作用するのであり、バネと歯車の組合せで動く時計のようなものだ」と述べました。

 

ルネ・デカルト(31/03/1596 生まれ 11/02/1650 没)↑

 

ジャン・ド・ラ・フォンテーヌ(08/07/1621 生~13/04/1695 没)↑

 

ラ・フォンテーヌはシャトー・チエリの生家とパリの住居を行き来しながら「寓話」を書き続けていましたが、やがて借金が重なり生家を売らねばならなくなり、以後、パリのラ・サブリエール夫人の庇護を受けラ・サブリエール夫人宅に居候して創作活動に励んでいました。

 

ラ・フォンテーヌはシャトー・チエリの生家とパリの住居を行き来しながら「寓話」を書き続けていましたが、やがて借金が重なり生家を売らねばならなくなり、以後、パリのラ・サブリエール夫人の庇護を受け夫人宅に居候して創作活動に励んでいました。

 

ラ・サブリエール夫人は当時パリでもっとも才気煥発な女性の一人で、彼女のサロンには学者や哲学者が常時集まりました。学者は天文学、数学、形而上学と広い領域に渡っていました。


デカルトの方法序説が出版されると「魂の問題」をめぐってこのサロンでも論争が巻き起こりました。ラ・フォンテーヌとその友人たちはデカルトの「動物機械論」に到底同意できないと反対の論陣を張ったのです。

 

デカルトは動物は自動的に活動する身体しか持たない。それに反して人間は物質と分離され、身体とは完全・明確に異なる「考える」という行為がその本質である「不滅の魂」を持っている、と主張しました。

 

デカルトは動物の適応能力は知性の無い本能によっている。動物は「魂」を持たず、言語も持たないので思考もできないとしました。

 

これに対してラ・フォンテーヌはラ・サブリエール夫人に宛てた論考の中で4つの例を挙げデカルトに反論しています。

 

「寓話」の第9の書 寓話20

Discours à Madame de la Sablière
 Livre IX - Fable 20

 

がその原文なのですが、長いし、第9の書まで、今の翻訳の息が続くかも分からないので、とりあえず要約の形でここにご紹介しておきたいと思います。


例の1: 鹿

猟犬に追い詰められた鹿は、絶えず方向を変え、足跡をくらまし、時に若い鹿に代わらせもする。生き残りのためにちゃんと推理しているのだ。元の道に戻るのに知恵を働かせ、巧妙な変化と百もの権謀術数を用いる。群れの長ともなればその長寿に相応しい知力を持っている。

 

例の2: ウズラ

雛を救うために傷ついたふりをして犬の注意を惹き、犬が寄って来るとその鼻先で飛び立って逃げる。

 

例の3: ビーバー

彼らの建設能力は驚嘆すべきものがある。冬には家を建て、知的な技術の結晶である橋を渡って池を横切る。われわれの仲間は現在のところ、ビーバーの最大のノウハウは泳ぎながら電波を発するところにあるとみている。ビーバーが精神の無い、空の身体だけだなどと、とうてい信じることはできない。

 

例の4: 最後に二匹のネズミ

二匹のネズミが一個の卵を見つけるとそれを運ぶのにすばらしい能力を発揮する。一匹が卵を背中に背負い両脚で支え、あちこち躓きふらふらしながら進む。もう一匹が尻尾で誘導するのだ。


ラ・フォンテーヌは結論づける。こういう話を聴いたあとで、動物がすこしも精神を持たないなどという主張を支持することは到底できない、と。

 

(つづく)