フロンドの乱 その⑬  | 雷神トールのブログ

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トリウム発電について考える

逮捕された3人を乗せた馬車の御者は人眼を避けるために目抜き通りを避け、路地をのろのろと走らせた。歴戦の強者コンデ親王は、運動神経も発達していたので、馬車から跳び下りたが、護衛のカミングスに捕えられてしまった。「安心されよ。逃げたりはしない」コンデ親王はそう言うとふたたび馬車に乗った。

3人はヴァンセンヌの森の城砦へ連れて行かれ、そこの一部屋に閉じ込められた。部屋にはベッドもなかった。コンデ公は陽気に振る舞い、二人を慰めた。3人でトランプをして遊ぶ間も、面白い話をして喜ばせたと言う。

コンデ公の口を吐いて出る言葉は、この親王の精神の気高さ、頭の巡りの速さ、剛胆な勇気に支えられた健康な精神をを示していた。

カミングスはその日から一週間、コンデ親王の傍で監視役を務めた。その間、コンデ公は非常に気持ちの良い話を休むことなくしてくれた。

一週間が経ち、カミングスがコンデ公と別れねばならない時、カミングスは涙を流し泣いたという。モットヴィル夫人に語ったところによれば、ずっとコンデ公と一緒に居たいと思ったほどコンデ公の魅力の虜になってしまったという。


コンデ親王のお妃は、クレール・クレマンス・ド・マイエ・ブレジェと非常に長い名前である。 ブレジェ元帥とニコル・デュ・プレシス・ド・リシリュー(前枢機卿の宰相リシュリューの妹)との間の娘で、夫が逮捕されると夫の身を気遣い、 高位の貴族の義務から、味方を動員し、夫を牢獄から出させようと尽力する。

アンヌ太后とマザランに逆らい、シャンテイイの城へ一時亡命し、さらにベリー地方で15世紀にベリー公の宮廷が華やかな文化を咲かせた街ブルジュの近くの、 大コンデ公の父、ブルボン=コンデの居城、モンロン城へ移り、そこからボルドーのフロンド派を頼って旅に出た。



今は礎石が残るだけとなっているサンタマン・モンロン城。13世紀に
建設が始まり17世紀に完成した。アンリ4世の宰相シュリーが買い
大コンデ公の父親に売った。城砦だったことを跡付ける図面が残っている↓


ボルドー市内にコンデ大公夫人を入れるかどうかにつきボルドー高等法院に人々が集まり議論がなされた。 むろん、入場を許せば地方総監エペルノンに宣戦布告をするようなものである。 高等法院判事全員とボルドー市民は反逆者の夫人の入場を許し、国王への反抗宣言に立ち還った。

大公夫人とお付きの入場を許し、ボルドーの民衆は、ムスケット銃を空に向けて放ち、花火を打ち上げ、演説をしてお祝いをした。 大公夫人は高等法院判事の前に膝まづき保護を願い出た。ボルドーは全市を挙げてコンデ大公夫人を保護し、マザラン派の地方総監エペルノンと戦う道を選んだ。

大公夫人の味方には、経験を積んだ二人の戦略家がいた。ひとりはブイヨン公といい、もう一人がラ・ロシュフーコーである。

ブイヨン公はパリ包囲戦で大コンデ公率いる国王軍に敗れたが今は投獄された3人の王子たちの盟友となっている。

ラ・ロシュフーコーは17世紀フランス・モラリストの代表とも言える人物で「箴言」に辛辣な人間観察を書き遺した。
数々の戦線に参加し、1659年頃から書き始め1680年に没するまで五版が出版された。

ブイヨン公は身一つで大公夫人に付き添っていたがラ・ロシュフーコーは多少の財産もあり小隊を引き連れていた。

ボルドー自衛軍は即座にふたりのもとに救援隊を派遣した。

(つづく)