フロンドの乱 その⑪ 3兄弟の逮捕 | 雷神トールのブログ

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トリウム発電について考える

パリの反乱が一応の静まりを見せた後も、宮廷はサンジェルマン・アン・レイに移ったままだったので、大コンデ公はパリに戻るよう進言した。

国王ルイ14世と摂政アンヌ・ドートリッシュが不在のままではパリの商工業が活気を取り戻せないし、貴族が信用を失い、外国から融資を受けるにも差支える。

対スペインのハプスブルグ家の王位継承をめぐる戦争は依然続いていたし、フランス国軍の武器弾薬も底をつきかけていた。

国王を乗せた荘厳な馬車がパリに入ると民衆は「王様バンザイ」を叫び歓呼して迎えた。フロンド派の高官たちはこの光景に啞然として眼を見張り、レッツ大司教は、古代の歴史家の、独裁者を追いだした同じ民衆が、数年後に戻って来た独裁者を歓呼して迎えたという記録を想起した。


マザランは、国王とその母親の様には歓迎されなかった。数週間前までは数千のパリの民衆がマザランの首を刎ねよと叫んでいたのだから。


サント・ウスタッシュの教会で厳かな式典が催され、国王と太后の紋章を見ると群衆は歓呼で迎えたが、マザランの紋章が現れると たちどころに奪われ、引きちぎられ踏みにじられてしまった。その後もたびたびマザランの紋章が宗教的な聖なるものと関連して現れると、 沁みをつけたり汚されたりした。


↑レ・アルに建つ巨大な聖ウスタシュ教会。1532年に建設が始まり1633年に完成した。ここに出て来る式典が催された時は 完成したばかりになる。8000本のパイプから成るフランス最大のパイプオルガンが有名で、ベルリオーズがデ・デウムに使い1866年には フランツ・リストが演奏した。

マザランは大コンデ公がサンジェルマンへの王宮の臨時遷都の直後に、直ちに兵を動かさず逡巡したことが、フロンド派への勝利が決定的とならず中途半端に終わり、 和議においても大幅な譲歩を強いられたと信じ不満を抱いていた。

一方の大コンデ公は、北方戦線で数々の偉大な功績を挙げフランスを勝利に導いたにもかかわらず、マザランはじめ王室の反応が冷やかだったことが不満だった。

北方戦線から凱旋した大コンデ公の代わりにマザランは国軍の総司令官に別の将軍を任命するなど大コンデ公の名誉心を傷つけることさえした。

大コンデ公が高等法院を中心に自衛軍を増やして市街戦を準備しているパリへすぐに軍を向けなかったのは、実の弟のコンチ公がフロンド軍の指揮をとっていること、 さらに義弟のロングヴィル公が絶対的な領主であるノルマンデイーの「ポン・デ・ラルシュ」という土地を巡って、国王、太后、マザランと利益が対立していたからであった。

 モットヴィル夫人の「覚書」から引用する。 いままで、コンデ公、コンチ公と書いてきたが、 モットヴィル夫人は一貫して Prince の称号を二人に使っているので、以後、コンデ親王、コンチ親王と表記する。


「コンデ親王はポン・ド・ラルシュを得る為にマザランを困惑させ始めました。この件は、太后がお望みにならない案件の中に仕舞われていました」。

「9月10日、マザランは、コンデ親王の苦言に対しこう言われました。ポン・デ・ラルシュはノルマンデイー領主のロングヴィル公爵が返還されたものであり、 国王と太后は国の利益の為に、その地を保有されてるのですと」(394P)

「太后は頬を赤く染めながら、私に、ポン・ド・ラルシュをコンデ親王に与える許可を出したところだと告げられました。 これが国王の利益に反し、御機嫌をそこねないよう望んでいるともおっしゃいました」(410P)

ノルマンデイーは1639年にルーアンで暴動が発生している。


さらに当時ギュイエンヌ地方と呼ばれていたフランス南西部の中心都市ボルドーでも、マザランの増税、特にワインの課税率を挙げる決定に、 ワインの輸出を生業としているこの街の人々は反対し立ちあがった。

ボルドー高等法院は税の不当な値上げの決定を無効とする判決を下した。 ボルドー市民は自警団を強化し、12中隊から36中隊に増やした。さらに郊外のリブリュヌでは要塞を強化する工事が始まった。

 ボルドーの地方総監はエぺルノンだったが、コンデ親王は「この男は無能であり、人々から嫌われているから罷免すべき」と進言した。

 これに対し、ガストン・ドルレアン公とマザランはエペルノンに固執した。 ガストン・ドルレアンがエペルノンを手放さなかった理由は、エペルノンの忠誠心からでもなく、彼のギュイエンヌ地方における王室の 影響力拡大に対する熱心な行動からでもなかった。国王の伯父(ガストン)は、もしエペルノンを解任すれば、コンデ親王が、その意を通じた人物を後任に据えるよう推奨し、 王室におけるコンデ親王の影響力が、これを機会に更に増大することを怖れたからに他ならなかった。

こうして、1649年の暮れに、コンデ親王とコンチ親王、ロングヴィル公の逮捕が決定された。


マザラン、アンヌ太后、ガストン・ドルレアンは、コンデ親王の、栄光に満ち、若い貴族たちがこぞって親王の指揮の許に従軍したいというほどの絶大な人気に怖れをなし、 自分たちの権力が危ういと感じた。彼らが動かす王室、さらにはフランス国全体をも危機に陥れるという理由を付け、コンデ親王逮捕に踏み切ったのだった。

 (つづく)