18世紀フランスの3人の百科全書派(啓蒙思想家)の一人ヴォルテールが、その著「ルイ14世の世紀」(第3章)で褒め称えているように、大コンデ公(アンギャン侯=ルイII世)は不世出の名将だった。
この時代の指揮官は自ら戦闘部隊の先頭に立って敵陣へ斬り込んだ。コンデ公の名はフランスの歴史の、あちこちに年代を違えて出てきてややこしいのだが、軍事の天才だったコンデ公・ルイⅡ世を他と区別して「大コンデ公 le Grand Condé」と呼んでいる。
まだ19歳の若者ながら、大コンデは宰相マザランの命で北方の30年戦争に従軍した。30年戦争についてはまだよく知らないので 何も書けないが、1618年から1648年までの30年間に、神聖ローマ帝国(ほぼ現在のドイツ)を中心に、プロテスタントとカトリックの対立、ハンザ同盟による結束が強かった北方の港、ブレーメン、ハンブルグ、リューベック、ダンチヒなどを支援するスカンジナヴィアとイングランド、オランダに精力を張っていたスペイン、カトリックの代表、フランスがそれぞれに介入した内戦(Civil War)だったようだ。
現代でいうとさしずめシリアのアサド政権と反体制勢力がそれぞれロシアやEUの支援を得て戦闘を続け多大の犠牲者と難民を生み出したのと似ているかもしれない。30年戦争の犠牲者はペストにも匹敵し、甚だしい人口減少を生み、ドイツの歴史を通じ最大の災禍だったといわれている。
さて、大コンデは19歳で三十年戦争に従軍し、21歳でロクロワの戦いで老将ドン・フランシスコ・ダ・メルロが率いる二万六千のスペイン軍を、数で劣る兵力で包囲し撃破した。
ヴォルテールが「ヨーロッパの人々がスペイン軍に対して抱いていた尊敬がフランス軍へ向いた。かくも偉大な勝利をフランス軍が飾った事は百年来なかった」と絶賛している。
その後も、フリブール、ネトリンゲン(1645)、ダンケルク(1646)と連戦連勝を重ね、ついにアルトワ地方のランス(Lens )で1648年8月20日、オーストリア・スペイン連合軍を撃退し、フランスの勝利を決定的にした。
この戦勝を記念して、王室の指示によりパリのノートルダム大聖堂で「テ・デウム」の式典が執り行われた。
アンヌ・ドートリッシュ大后、幼いルイ14世、宰相マザランを中心にパレ・ロワイヤルからノートルダムに向って馬車と衛兵の列が続く。 四人の衛兵に付き添われた一台の馬車が、ノートルダム橋と大聖堂の間に在った細い路地、サン・ランドリ通り rue Saint-Landry に入って行った。
その路地には、パリ高等法院の73歳になる老評定員でマザランの財政への反対運動の指導者ブルーセルの住居がある。
現在の最高裁判所。ノートルダムのすぐ近くにある。
衛兵隊長はブルーセルをテーブルから立ちあがらせ馬車に乗るよう命じた。シテ島には高等法院がノートルダムの正面からわずか500mの所にあるので高等法院の評定員が多く住んでいた。衛兵の馬車がブーセルの家の前の停まった時から隣人が注視しブルーセルを引き立てて行くと判ると大声で「ブルーセルが掴った!」と叫ぶ。たちまち家から家へ、口から口へ「ブルーセル逮捕」の報が伝わる。
他の評定員も二人ばかり逮捕されるところだったが一人は垣根を飛び越えて逃げ、一人が逮捕されてパリ郊外の監獄に留置された。
ブルーセルは瓦版新聞の似顔絵などで知られ民衆に人気があった。半鐘が鳴り響き、たちまちのうちにシテ島周辺の道という道にバリケードが築かれた。
樽や材木、敷石や荷馬車を倒して積み、騎馬兵が通れぬようにする。バリケードは数世紀前からパリ市民の自衛手段として伝統となっていた。
商人は店の窓と鎧戸を閉め、職人は陳列台を片付けると、それぞれムスケット銃や剣、棍棒などを取りに行き武装する。なにか事があれば防衛できるよう自警団(民兵)が組織されていて商人頭が自警団の隊長を兼ねることが多かった。
ブルーセル逮捕によってパリ市民は異変をとっさに感じ、瞬時に防衛線を築いたのだから凄い。
オレスト・ラナン著「ラ・フロンド」(1995年スイユ社刊)によれば、この時のバリケードの数は1260に達したというから大規模な反乱に発展する可能性があった。
だが、バリケードは防衛体制を示すだけのものだった。市民は自警団隊長の指示を待ったがなにも出てこなかった。
(つづく)
