マグダラのマリアとヴェズレイの聖堂 | 雷神トールのブログ

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ヴェズレイの聖マリー・マドレーヌ聖堂とマグダラのマリアについて少し調べてみた。

 

ヴェズレイの丘の上の聖堂と街並みの遠望↑

 

マグダラのマリアの遺骨とされるものが何故ここにあるのか?

マグダラのマリアはどういう女性だったか?

 

諸説があり、キリスト教と古代パレスチナの専門家でもない素人が真異を見分けることは困難だ。諸説を知り、ただ、想像を巡らすに留まる他ない。

 

一般に聖書の記述などで知られている通り、キリストがゴルゴダの丘で磔刑に処せられた時に最後まで十字架の足元に残り、 遺体が葬られた墓を訪れた際に、復活したキリストを最初に見た女性がマグダラのマリアとされている。

 

他の弟子たちが怖くて逃げだした時も怖がらずに居た勇気と信念を持った女性とされている。

 

マグダラのマリアとベサニアのマリアは同一人物とする説が初期のローマ教会により唱えられたが、ヴァチカンのカトリック教会は マグダラのマリアの祭日は7月22日で、ベサニアのマリアはその妹のマルタと7月29日に祀るよう指示し別人であるとしている。

 

マグダラの語源はアラメア語でMagdal、ヘブライ語で Migdal で共に「塔」の建設を意味するという。

 

伝説によればマリーはマグダラの地のシャトーの塔をラザロとマルタと共有していたという。

 

グノーシス文書にはマリアの福音書( l'Evangile de Marie )があり、キリストとマグダラのマリアの会話が記されているという。

 

世界的ベストセラーとなったダン・ブラウンの「ダヴィンチコード」はマリアはキリストと結婚し子供をもうけ、その子孫がメロヴィンガ朝を興したが、ヴァチカンの画策により隠蔽され続けたとしている。

 

マグダラのマリアは娼婦だという説や、らい病(ハンセン病)患者の専業だった縄ない職人の守護神だったという説がある。

 

La Madelaine = La Maladrerie から派生した語でハンセン病を隔離する収容所を意味するという。

 

南仏プロヴァンスのカマルグ(沼沢地方)はヨーロッパ中のジプシー(最近は旅する人々と呼ばねばいけない)が毎年一回祭りに集まる地として有名で、そこにはサント・マリー・ド・ラ・メール( Sainte- Marie-de-la Mer )の教会がある。

 

マグダラのマリアは小舟に乗って地中海を渡り、サント・マリー・ド・ラ・メールに上陸、この地で伝道をした。

 

近くのサント・ボーム( Sainte-Baume 今日聖地となっている)の洞窟に籠り死ぬまで祈りを続けた。

 

墓がサン・マキシマン・ラ・サント・ボーム( Saint-Maximin-la-Sainte-Baume )ドミニコ派修道会の墓地にあり、キリスト教で3番目に重要な墓地である。

 

しかし、マグダラのマリアはパレスチナを出たことはなかったという説や、墓は小アジアのエフェスEphese にあるという説がある。


それはさておき、何故、ヴェズレイの聖堂のクリプト(地下礼拝堂)に一部分だが、祀られているのか?

 

ヴェズレイの歴史をみよう。

聖堂(バジリック)はカテドラルと違い十字形をしておらず平面図は長方形。

 

ヴェズレイの丘の上に聖堂が建てられたのは1120~1150年で12世紀の事。

 

873年、ヴァイキングはル・アーヴルの入り江に上陸し、セーヌ川を遡り、パリを脅かし、さらにヨンヌ川、キュール川を遡ってヴェズレイの近くまで侵攻した。

 

878年、教皇ヨハネ8世はベネデイクト派をヴェズレイに避難させ最初のカロリンガ教会を建てさせた。それが今日、クリプト(地下
礼拝堂)として残っている。

 

882年、サラセンがプロヴァンスに侵攻し、その混乱から救うため、バデイロン Badilon という修道僧がサント・マキシマンへ派遣され、マグダラのマリアの遺骨をフランスの北、ヨンヌ地方(ヴェズレイだったのか?)に持ち帰った。

(ふむ、ふむ。それで、遺骨がここにあるってことが納得できました)

 

1281年からは遺骨はサンスのカテドラルの宝物として保存されていた。

 

その後、変遷を重ね、ヴェズレイの教会は忘れられ廃墟同然となっていたが、1834年、カルメン、コロンバなど短編小説でお馴染のプロスペル・メリメ(実は文化大臣という偉い地位にあったのです)が廃墟になっていたヴェズレイの教会を発見。

 

1840年、中世建築の大家、ウジェーヌ・ヴィオレ・ル・デユック Eugene Viollet-le-Duc 監督の下、修復が開始された。


ヴィオレ・ル・デユックはパリのノートルダム寺院、ピエールフォン城などの修復を手掛けた建築家です。彼が執筆編纂した大部な中世建築事典は20世紀フランスの抒情詩を代表するポール・ヴァレリーの愛読書でもありました。

 

1876年7月23日、サンス(Sens ヨンヌ県の大きな町)の司教ベルナドウが、、マリー・マドレーヌの遺骨を教皇マルタン4世の手でヴェズレイへ安置しなおした。

 

遺骨は一時行方不明となり、1898年12月25日(クリスマス)に子供がブリヤール Briare の墓地の墓の上に放置してあるのを見つけた。

 

ヴェズレイの聖堂は代表的なロマネスク様式の教会であり、入口付近は暗く、奥の祭壇へ近づくほど明るい設計になっている。

 

1979年 ユネスコの世界遺産に登録された。

 

最後に、マグダラのマリアはキリストの奥さんだったという説に戻ると、キリストとマグダラのマリアが接吻をしていたという記述を根拠に夫婦だったとするダン・ブラウンのような作家がいるが、グノーシス的視点からは、精神的な魂である「息」を吹き込み伝達するために主は弟子に口づけをしていた、と理解できるという。

 

グノーシス思潮は女性を再評価し、マリー・マドレーヌにソフィアやノレア同様、女性の神聖さを強調しようとしたのだ、という。

 

マリー・マドレーヌはキリストの精神的同伴者と見るのが正しいと思う。

 

(この回はこれでおしまい)