ブルキニ禁止と自由平等 | 雷神トールのブログ

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フランスで海水浴にブルキニを着用する女性に対し、30余りの自治体が条例でこれを禁止したり罰金を科すなど決めたことに対し、国務院(Conseil d'Etat 行政裁判の最高機関)がこの条例は信教と個人の自由を侵害するものであり「凍結(サスペンド)」すると裁断した。


ブルキニ


7月14日夜のニースで恒例の花火大会が終わり帰りかけていた見物客の群れに殺人トラックが襲いかかり老若男女、子供もイスラム教徒の女性も見境なく薙ぎ倒し大量殺戮テロが行われた。

残酷極まりないその記憶が生々しい中、南仏の自治体が予防的にイスラム文化の表出としてのブルキニ着用を禁止する措置に出たのもやむを得ぬと理解できるし、それだけ人々がイスラムに過敏になっている証拠だろう。


しかし、ブルキニは2004年にオーストラリアのファッションデザイナーが創作した水着でイスラムをファッションとして捉え、信仰という内面の問題とはあまり関係が無い。

それどころか、ブルキニが公表されると即座にイスラム過激派のそれぞれのグループはこんなファッションを断罪した。

敬虔なイスラム教徒の女性ならば海水浴などすべきではない、というのがイスラム過激派の考えで、セラフィー主義を信奉するイスラムの男たちから、そもそもこんな水着などイスラムを侮辱するものだし、女性を海水浴の誘惑に駆り立てる享楽的な衣装と断罪されていた。

ブルキニを着用する女性は、したがい、イスラム過激派からも断罪され、自由平等を建前とするフランス社会の夏の海岸でも「公共の秩序を乱すおそれがある」として軽犯罪扱いされ、両面に敵を作る覚悟がなければならない。

国務院がくだした判決は、ファッション性の高い水着の着用を禁じるのは個人の自由というフランス共和国の大原則に抵触するものだから、この条例は「凍結」するということだった。

ブルキニ着用は直接公共秩序を乱すことにはならない、との判断で、あるいは先々週コルシカ島で起こったアラブ人とコルシカ人とが海岸の使用を巡って殴り合いの暴力沙汰を起こしたのがブルキニ着用がきっかけだったとなれば、公共秩序を乱す原因を作ったとして禁止措置も可能かもしれない。が、今は幸いそんな段階には達してはいない。

30の自治体がブルキニにファッションとして現れたイスラムの宗教性を見るわけで、そこには社会と文化、宗教の関わりがあり、大革命以来フランス社会が築いて来た「国家と宗教の分離」、「非宗教(ライック)社会」という大原則と微妙な触れ合いがあるためで、顔も覆い眼だけを出すブルカをフランスの街中で着用して歩くことは禁止された。ブルカは社会に対して個人が顔を隠す、反社会的で匿名性の高い服装だから、という。

フランス大革命までフランス社会にはユダヤ人を集めた「ゲットー」が存在した。カトリック社会ではユダヤ人は差別されていたのである。大革命により「人権宣言」が公布され、個人の自由と平等の原則が打ち立てられ、ユダヤ人もゲットーから普通の社会に出ることが出来た。しかし、代わりにユダヤ人はフランス人となることを求められた。ユダヤ教の慣習と矛盾するところはフランス社会の慣習、法規を優先しなければならなかった。1848年の革命はフランスのみならずプロシアや他のヨーロッパの国々に伝染しユダヤ人は表向き解放された。

ナポレオンはユダヤ教のラビを集め、これからはフランスの社会慣習、法規に従うように、と大革命が打ち立てた自由平等の原則をユダヤ人社会も尊重するよう誓わせたのだった。

同じことが今フランスに住むイスラムを信奉する人々に求められようとしている。イスラム教は男性優位であり、女性は外出の際は肌を隠さねばならず、サウジでは車の運転が禁止されている。一夫多妻制度が現代も通用している。

一夫一婦制のキリスト教を根幹に置いた西洋社会とはこの点相容れない。フランス社会に暮らすのならば、フランスの市民社会の原則、「男女平等」をイスラム教徒も順守しなければならない。

海水浴を楽しむのに、なぜ肌を隠さねばならないのか? 女性が自ら男女平等を投げ捨て、肌を隠す中世的な慣習を選んでしかも海水浴の感覚を味わいたい。こんなに肌を覆っていては海水に浸かる快感は味わえないだろうと思う。

現マニュエル・ヴァルス首相は、男女平等の見地からすれば、ブルキニ容認は女性の自由侵害と繋がる、としてこの問題をフランス社会がさらに続けて議論することを求めている。

大統領選挙が近づいていて、元大統領のサルコジ氏、元首相のアラン・ジュッペ氏、それぞれ表現の仕方は違うがイスラムとフランス社会のありかたについての原則的な考えを表明している。