テロの報道の仕方 | 雷神トールのブログ

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トリウム発電について考える

昨日は、ルーアン近郊の街、サンテチエンヌ・デユ・ルーブレで、殺害されたジャック・アメル神父の追悼集会が催された。

市民は追悼行進を願ったのだが、安全が確保できないとの理由で禁止され、市の広場(ガガーリン広場)で約2千人を集めて催された。


ヴィクトルユゴー


ローラン・ファビウス憲法評議会議長、ルーアン大司教、エルベ・モラン元防衛大臣で現上ノルマンデイー地方議会議長、市のモスクの管長、ユダヤ教シナゴーグのラビなどが壇上に上がり、市長が追悼演説をした。

共産党の市長がカトリックの神父の追悼演説をする、という貴重な講演だった。事件直後の衝撃の余り嗚咽をこらえながらの途切れ途切れの言葉とは違って、ゆっくりとながら、よく響く声で、選び抜かれた言葉で、陰で住民の支えとなっていた神父の死を惜しんだ。

「いつも自分を殺して人の役に立つことを願っていたジャックは、こんな大勢が集まって追悼してくれてるのを見て、自分にはもったいないと思ってますよ」。こう語る、5年前からジャックの後任として司祭を務めるオーギュスト・モアンダ・ファテイ神父はコンゴ出身の黒人司祭である。

このように、数十年に渡って共産党が市議会の多数派を占め、共産党の市長を戴くステファニー(サンテチエンヌの形容詞)市民は、カトリックもプロテスタントもイスラム教もユダヤ教も、そして共産党もリベラルも平和に共生を望み、対話を絶やさず、常に共生のノウハウを見出し実行している市民たちなのである。

政治的対立が激しくなり、内戦が起こるのでは、と危惧する向きもあるフランスだが、このように思想、立場が違っても、争わず平和共存を優先しようというのが大半の市民の姿勢だ。それが共和国というものなのだろう。

ところで、

テロの報道につき、フランスのメデイアには、テロリストの名前、残虐なテロの現場写真の公表を控えようという動きが広がっている。

ひとつには、テロリストが死後の栄光と名前が歴史に残ることを頼みにして実行に走るのを絶とうという配慮。

ル・モンド紙とBFMTVはすでにテロ現場の写真は公表しないと決定した。ユーロップ1、さらにカトリック系の新聞「ル・クロワ」はテロリストの名前は公表しないと決めた。

もちろん、あくまでも報道の義務として公表すべきとの主張もあり、メデイアのすべてが一致しているわけではない。

2015年1月のシャルリー・エブド襲撃事件、11月のバタクラン劇場のテロに際しても、メデイアの報道に対し様々な批判が寄せられていた。犯人が印刷工場に立て籠もっている最中に工場の中に社員が隠れていると報道してしまい、命を危険に晒したと訴えられたBFMTV。

編集者はどのような報道の仕方をすべきか悩まされている。クワシ兄弟や、アブデルハミッド・アバウッドの名前と写真は、ごく一部のフランス人に「英雄」として映る危険があり、ダエッシュ(IS)は「殉教者」として扱い続けるからだ。

彼らの身元を詳細に公表することがどれだけ必要か? 匿名(無名)のままにして置いた方が良いのではないか?

これに対しては、テロリストの動機と、どういう経歴で、テロを実行するに至ったかを報道することは重要だ、しかし写真を公表する必要はない、という意見。

ファーストネームだけでファミリネームは頭文字だけにしよう、とかの折衷案も出ているが、共和国検事が実名を挙げて公表するのだからメデアは報道すべきだ、事実を報道することと栄光を与えることとは別のことだ、とする意見が一般のようだ。

テロの報道についての議論は、特に7月14日のニースの大量殺人から俄かに高まった。それには、監視カメラの映像が漏れ出て特にテロ組織に悪用されるのを避けるため、アーカイブには保存し、現場のカメラからはすべて消去せよ、との指示が中央のある部署(それが検察か内務省か? 混乱があるのだが)から出され、政府による不当介入だとニースの監視カメラの責任者サンドラ・ベルタン女史が政府を相手取って訴訟を起こしているからである。

花火大会の夜のプロムナッド・デ・ザングレの監視体制は打ち合わせ通りで、国家警察に手抜かりは無かった、との調査結果が警察の警察  から出たばかり。

事前の打ち合わせで、最初の検問はニース市警察の管轄とされ合意したのだ。そこがトラックを通してしまったのだから、国警と内務相を非難した元ニース市長のエストラジー氏は自ら墓穴を掘ったことになる。

警備態勢の問題とまったく無関係ではないようで、というのはエストラジー氏のカズヌフ内相非難は、惨劇が起こったばかりのあまりに早い声明だったので、サンドラ・ベルタン女史の国が不当に介入したとの苦情と訴えに触発されてのことだったのでは? と疑われるからである。

この件は複雑で、政治がらみなので、別の機会に書くことにする。