赤穂事件について その③ | 雷神トールのブログ

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トリウム発電について考える

トラジニがキジバトを捕まえにまた木にのぼった。どこにいるんだあ~?


トラジニ1

ここだよ~ん! うえ向いてます。

トラジニ2


さて、赤穂事件。 

歌舞伎では、浅野内匠頭が松の廊下で吉良上野介に切りつけた原因として吉良の「いじめ」を設定し、とりわけ「増上寺の畳替え」と「墨絵の屏風」により内匠頭は堪忍袋の緒が切れるだけの虐待を受けたとする。

なるほど浅野内匠頭は高家肝煎(指南役筆頭)の吉良上野介に「御馬代」として払うべき指導料を巻絹一台と鰹節一連(2本)で済ませるなどひどいケチぶりを発揮した。

同じ接待役の伊予吉田藩の伊達村豊は大判100枚(約2億円)を贈ってるのに、これじゃあ虐められても仕方がないやね、とたいていの者は考える。

内匠頭の勅使饗応役はこれで2度目で、一回目(1683年)には400両を贈っている。2回目で儀典の細目なども知ってるし、指導料は勅使が帰りお役目が終わってから贈るつもりだった。

しかし、この年はそれまでと違い特別な年だった。将軍綱吉の母、桂昌院が「従一位」の官位を得るため、特別重要な接待が望まれた。

吉良上野介は饗応費に1200両は出せと浅野に迫った。しかし浅野は700両が精一杯です、と最後まで応じなかった。

物価は前回(1683年)に比べ2倍にはね上がっていた。1200両でも少ないと吉良は考えたのに700両では、口うるさい公家たちにどんな悪口を言われるか知れたもんじゃない。

そこで自然意地悪が出てしまう。芝増上寺は家康の時代に徳川家の菩提寺となり、以来、塔頭寺院の観智院を江戸へ上がった勅使が休憩所に使い、そこの畳約200畳を毎年換える習わしが出来ていた。

芝居では、内匠頭は勅使饗応役を前日まで知らされず、観智院の畳200畳を、江戸中の畳職人を集め一晩で入れ替えた、となっている。

吉良上野介は新しい畳表の清々しい臭いを嗅いで、よくやったものだと感心しながら、これも「金」のおかげじゃのう。ぎょうさんお金を持ってはるのう、と嫌味を言ったとなっている。

また、勅使のお居間に墨絵の屏風とは不吉千万、無礼であろう、と浅野をなじる場面がある。

ほかにも、式服がなにかわからなくて裃を着て行ったところ直垂だったとわかり、気の利いた家臣が、万一を慮って用意してくれていたので間一髪で間に合い助かったとか、吉良の「いじめ」がこれでもか、と繰り返される。

吉良は高家筆頭で指南役なのだから、そんな意地の悪い事をして、担当役が万一粗相をしたら自分が責任を負わされるのだから、そんな意地悪をするはずがない、というのがネットに載ってる大半の意見。

第一、そんな明らかな虐めならば内匠頭が遺書に書くだろうし、討ち入りの口上書に書かれていいはずなのに、ただ「讎」とあるだけで具体的にひとつも触れていない。浅野が虐められたと思い込んだ被害妄想ではないか?

吉良上野介はお国(領国)では名君として評判もいいし、そんな悪人じゃなかったのじゃないか? という意見が多い。

これらは芝居や小説の勧善懲悪に対して反対の見方もあるとして貴重なのだが、赤穂事件を考える時に、いくつか忘れてはならない要件があると思う。

その① 
勅使接待役を命じられた時、浅野は一旦、辞退している。理由は、当時播州赤穂藩が財政難にあり財政改革の最中だった。こんな時期、1億数千万円も出費をしては、藩財政が破綻する、とそれで頑なに予算を渋った。やりたくない役を押し付けられたうえ多額の出費に苦しまねばならない。藩の財政立て直しに腐心している家臣の事を思えば、こんな虚飾の典型みたいな儀式に数千万の出費をするのは我慢がならない。(10両が100万円相当だから、700両は7000万円。吉良が要求した1200両は1億2千万円)

その② 
浅野内匠頭長矩には持病があった。痞(つかえ)というストレスなどが原因で喉や胸が圧迫され、微熱が出て鬱状態になる病気。 とくに気候にも影響され、松の廊下事件の日は湿度が高く、痞(つかえ)が発病した。

その③ 
増上寺畳替えと屏風の墨絵事件がフィクションだったとしても、関係者一同の前で吉良に叱責されたのは事実。これはみんな知ってることなので、ことさら書かなくても「個人的な恨み」だけで解かる筈。

その④ 
松の廊下の刃傷は、計画的犯行ではなく偶発的なものだった。前もって吉良を殺してやろうと思ったなら、いかにお坊ちゃん殿さまでも、刃物の使い方くらい知ってただろうから、切りつけずに、体当たりをくわせ、脇差に体重をかけ肝臓の辺りを一突き、ぐさりとやれば、仕損じることなく仕留められた筈。眉の上と背中に切り傷しか与えられなかったのは、廊下で吉良を見て、突然むらむらと怨念がこみあげ、刀を抜いてしまったということなのだろう。


「忠臣蔵」伝説は明治時代から、忠君愛国とナショナリズム高揚のために利用されてきたと思うが、庶民の間にこれほど人気が長続きするのはそれなりに理由があるにちがいない。

浄瑠璃の「仮名手本忠臣蔵」を皮切りに歌舞伎、小説、大河ドラマと繰り返し赤穂浪士の討ち入りの話が続けられてきたのも日本人の心情と深いところで繋がるものがあるからだろう。

「忠義」ということでいうと、浅野家の祖、浅野長政は秀吉の甥にあたり、五奉行の筆頭でもあったが、石田三成と折り合いが悪く、関ケ原では東軍についた。いわば、成り行きで徳川についた。譜代ではなく中堅の外様大名で、徳川家に忠義が篤いわけではなかった。安芸の浅野家が本家、赤穂は分家となる。

赤穂事件の発端となった浅野内匠頭長矩がいやいやながら押し付けられた勅使接待役をどうみていたか?

朝廷から征夷大将軍の名を賜り、江戸に幕府を開いた徳川家康が朝廷との関係を円滑にするために毎年京に使いを送り挨拶をする。その返礼に京から天皇の勅使と上皇の院使とが江戸に上り挨拶をするので、その御もてなしの儀式典礼と饗応役が大名に振り当てられる。

そもそもは、徳川将軍家が朝廷から任された日本国の統治の大役を年々確認するための儀式なのだから、徳川家が自腹を切って行うべき筋の行事ではないか。それをたかだか5万石(赤穂は塩の収入を加えても6万石)の小規模大名に代行させるのは、今風に言えば、大手ゼネコンがマンションの杭打ちを下請けに丸投げしたり、大手自動車メーカーが燃費や排ガス計測ソフトを系列の下請けに丸投げしたり……と似たような責任と出費回避のためじゃないのか。ちなみに、赤穂の塩は良質で独占的なシェアを占めていた。これに競合する関係で吉良も塩を製造販売していた。

松の廊下事件を起こした浅野長矩は即日切腹、吉良義央は御咎めなしと裁決された。「上野介はまったく抵抗せず逃げただけであり喧嘩ではない」というのが幕府の見解。事件の原因究明なども行われず、ただ個人的怨念で大事な式典を汚したと厳しく罰せられた。

家康以来の伝統だった武士の喧嘩は両成敗は行われず、主君の怨念を家臣が受け継いだ。長矩は田村右京太夫に預けられ、その切腹は、大名に相応しくない狭い庭で行われ、普通なら切っ先だけ出して小刀は晒しで巻かれるのに、刃先が2・3寸も出たいわば重罪人の処刑だった。介錯には長矩の愛刀は使われず、介錯人の刀が使われた。おまけに仕損じて耳の脇に傷を残した。


長矩の遺骸を引き取りに行った片岡源五衛門、礒貝十郎左衛門、田中の三人は泉岳寺に埋葬した後、墓前でもとどりを切って仇討ちを誓った。片岡などから主君の遺恨を聴き、お家断絶、城明け渡しとの綱吉の厳しい断罪を知った江戸詰めの家臣たちは幕府の片手落ち裁決に義憤を覚えたことだろう。

討ち入りの後の、たとえば老中柳沢吉保のアドバイザー役(侍講)、荻生徂徠は義士達の行動を「浅野を殺したわけでもない吉良を仇として討つのは筋違い」と批判している。しかし、暴力はなにも肉体に加えるものだけではなく、心理的暴力は肉体に加えられると同じくらい傷を残す。

お家断絶と城明け渡しを命じられた浅野家家臣たちは、一時期、城明け渡しに幕府から遣わされる竜野藩脇坂淡路守などの軍勢に抗し籠城して抵抗したうえでお城の大手で切腹と決めた。

幕府への抗議、異議申し立ての行動は「公儀に対して畏れ多い」と、家老の大石は当時の武士の倫理から判断しながらも、亡君が果たせず遺恨を抱いたまま逝った「
」(仇)吉良上野介の首級を挙げる(討つ)こと一点に目標を絞った。

しかし堀部安兵衛に代表される急進派が個人的テロに走る危険を抑え、よりインパクトの強い集団的テロによって幕府への異議申し立てを、古からの武士の流儀に従いながら完璧にやってのけたのだった。

内匠頭長矩には子供がいなかったため、切腹によりお家断絶となる。長矩は弟の浅野大学を後継者と決めていたが、大学は芸州浅野家お預けとなり内蔵助の願いだったお家再興が叶うのは討ち入りからずっと後の事。

赤穂浪士の討ち入りに怖気づいて刀を捨て逃げ去った上野介の養子義周に対し幕府は「仕方不届き」と咎め諏訪安芸守に預けられ3年間幽閉のまま21歳で没した。