お婆ちゃんとの日常 ルーツ探索の旅 その⑧ | 雷神トールのブログ

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トリウム発電について考える

4歳の子供の私はヒサノお祖母さんに、蚤みたいにどこへもくっついて暮らしていた。ちゃぶ台でとったのだろう食事の光景は全く覚えていないが、風呂の釜の口に薪を焚くときも傍にくっついていたので、薪の焚き付け方を覚えてしまった。

今でも薪ストーヴに火を起こす時はほとんど間違いなく焚きつけることが出来る。たまに焚き付けの紙や粗朶が湿ってたりで煙ばかり出て燃え上がらずやり直しすることもあるが。粗朶から薪へ火が徐々に太い薪へ燃え移るよう粗朶と薪の積み上げ方を慎重にやるなど薪の焚き方を祖母から学んだ。

食事の光景をまったく覚えていないのが不思議だ。たぶん私は幼い頃から食い意地が張ってたガキで、そのために田舎に預けられたと思うのだが、こんな商店もなにもない田舎でどうやって食料品を入手していたんだろう? ヒサノお婆さんが畑で野菜を作ってる記憶はないし、と、養父の河辺さんのカフェでそのことを話すと娘さんが、巡回して食品を売りに来る人がいたのだろう、と教えてくれた。東京でも時代がだいぶ後になるまで千葉や埼玉から背中に大きな篭を担いだおばさんたちが各家庭を回って野菜を売りに来ていた。

調理の熱は薪のかまどだったとして水道なんかなかったろうし、井戸が台所にあったのかな? 風呂にバケツで水を入れてたとしたらとても骨の折れる仕事だったろうな。

畳敷きの八畳ほどの部屋の隅にはガラスの物入れがあり、瓶詰めのらっきょうだとか、梅干しの甕などが並んでいた。

おもちゃといったら、
四角い「ベテイさん」の顔がいちばん大きなパーツに描かれた粗末な木製の積み木だけ。そんなおもちゃを相手にひとりで遊んで退屈すると寝転んでガラスの物入れのらっきょうの瓶詰を眺めていた。

ヒサノお婆さんは私に絵を描く楽しみを教えてくれた。丹波は冬になると丹頂鶴が
渡って来るのでその鶴の描きかたを教えてくれた。子供には早過ぎるのにひらがなであいうえおを教えてくれた。幼稚園に入る前にひらがなの読み書きができたのはヒサノお婆ちゃんのお蔭だ。


川と学校
       大屋川越しに学校の丸い体育館の屋根とその左市役所が見える↑

そして子供ながら強烈な記憶に残ってるのがヒサノお婆ちゃんの太腿の肉なのだ。この家の厠は少し変わっていて、川の上に張り出した廊下の突き当りにあり、大きな方を足す穴から覗くと川の流れが見えたことは先回書いた。そして小さい方の朝顔にむかってお婆ちゃんは尻を向け放尿するのだった。裾を大きくまくったお婆ちゃんの太腿を子供は離されまいと手を当てて摑んでいた。こうして四歳の幼児の時からすでに肉の感触というものを知ってしまった(!?)のだ。

こうした田舎で二年間を過ごした幼時は都会へ出ると違和感、疎外感を抱いた。
もっとも、あの時代の東京は大空襲のあとの焼け跡だらけで、そこらじゅうに草ぼうぼうの空き地があった。小学校へ行くのも、そうした空き地を横切って近道したし、学校が終わって近所の子供と遊ぶのもそういった空き地だった。いわば東京という大都会にも自然が豊富にあったのだ。

子供はそうした空き地が空襲によるものだったことなど知らなかったし、歴史の感覚を子供は持たないので
戦争があったことも知らず、ずっと前からそんなものだったんだろうと長閑に考えていた。思えば、そんな東京で少年時代を過ごせた私らの世代は幸福だったともいえる。

私が兵庫県の日本海に近い田舎に預けられたのは、ひとつには戦後の何もない時代に、酒煙草を嗜み、遊び人の姑を抱え、妹が出来て母親の手が次男の私まで回らなくなったためだろうと思う。

私が預けられた4歳の年は敗戦から3年しか経っておらず、日本は連合軍の占領下にあり、東京にはあちこちに進駐軍と呼ばれたアメリカさんがいた。東京へ戻り入った幼稚園の前の明治通りを進駐軍の戦車が轟音を立てて通る姿が見えたし、西大久保の家の前には洋風ホテルが建ってバルコニーにピンクがかった白い肌も露わなアメリカさんの将校が膝に日本女性を抱いて戯れる姿が日常的に見られた。「ヘイ・カモン」とか言って子供にチューイングガムを投げるのだが、子供たちは怖がって電柱の陰に隠れ様子を盗み見るのだった。

東京へ帰って暫くの間も、おやつといえばジャガイモを皮のまま蒸かして塩をつけて食べるとか、サツマイモをシロップに漬けた缶詰だとかだった。

東京が急速に変りはじめたのは東京オリンピックからだ。そこらじゅうで工事の槌音が響き、首都高ができ、至るところがアスファルトで覆われていった。トンボや蝉を追いかけて遊んだ東京の自然がそうして壊され変貌してゆくのが私にはとても悲しく取り返しのつかない損失のように思われた。

一角だけに残された自然があるとそこへいって変貌する街の姿にそこはかとない寂しさを覚えた。戸山が原の箱根山とか市ヶ谷とか四谷の外堀に沿った崖の道とか。今でも紀尾井町に至る上智大学の脇の道にはわずかながら自然が残っている。

こんなふうに幼時に田舎で育ったものだから、私は都会には馴染めず、田舎の自然の中で暮らすのがいちばん落ち着くのだ。

現代の東京の高層ビルが林立した姿を観ても、別世界を観るようで、そこに住みたいなどとまったく思わない。

私のルーツは人里離れた田舎にあるのだ、ということをこんどの旅でも確認できた。

ヒサノお婆ちゃんは、母親よりも私にとっては大事な存在だった。

九鹿での生活は2年間で終わり、私は東京へ出て、花園神社の脇の四谷第五小学校の中に有る幼稚園に入園した。

私が8歳か9歳の頃、ヒサノお婆ちゃんが東京に遊びに来てくれた。1週間か10日の短い滞在だった。姫路に帰る日、母親と東京駅まで婆ちゃんを送りに行った。汽車が出る時、私は別れが悲しくて涙を流した。なぜかそれが私を可愛がってくれたヒサノお婆ちゃんとの永遠の別離になるような気がして。

それから6年経ち、私が東京で高校に入った15歳の夏に、ヒサノお婆ちゃんは死んでしまった。汽車は恐ろしいほどのろのろと走り、姫路に着いた時、お婆ちゃんはすでに意識がなかった。東京駅で別れた時がやはり今生の別れだったのだ。

私は今でも人と別れることがとても悲しい。そんな時はこの歌を唄って慰めることにしている。

別れといえば 昔より

この人の世の 常なるを

流るる水を眺むれば

夢はずかしき 涙かな

(島崎藤村作詞、惜別の詩)