95年のテロ | 雷神トールのブログ

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1995年にフランスで起きたGIAによる爆弾テロ

タレク(Tarek 本名アリ・トウシェン)は1994年にフランスでGIAの組織を作った。
彼は1988年にフランスへ入国し、テロを輸出するための組織づくりを始めた。
ラシッド・ラムダ(Rachid Rmda)は組織の財務を担当し、タレクと関係を保った。

1994年タレクは、2月にサフェ・ブラダと、7月にカレッド・ケルカル(Khaled Kelkal)と出会った。この二人はそれぞれ、シャッス・シュル・ローヌ(chasse-sur-Rhone)とヴォー・アン・ヴラン(Vaux en Velin)に組織を作っていた。

1995年6月になると、ブアレム・ベンサイド(Boualem Bensaid 通称メジ)が偽造パスポートでフランスに入り、一方でサフェ・ブラダはスマイン・アイト・アリ・ベルカセム Smain Ait Ali Belkacem をイタリアからリールに派遣した。ベルカセムは他の二人の男と組織を作っていた。

(15年後のことになるが、ベルカセムは逮捕・有罪判決を受け服役していた刑務所から脱獄を図った。この時の脱獄計画に関与したとしてアメデ・クリバリの住居が家宅捜索を受けた。クリバリは2015年1月9日、クワシ兄弟がシャルリ・へブド襲撃を行った後、パリ北部のダマルタン・アン・ガエルの印刷工場に立て籠もった際に、パリの南郊外モンルージュで女性警官を射殺し、その後ポルト・ド・ヴァンセンヌのユダヤ人向け食品スーパーで人質を取り立て籠もり4人を殺害したテロリストで特殊部隊に射殺された。)

1995年に戻る。
四番目の組織はパリにあった。オルナノOrunano大通りと、フェリシアン・ダヴォー通りrue Felicien-Davaud に二つのアパートを借り隠れ家にした。タレクは行方をくらまし、ブアレム・ベンサイドにケルカルの組織と爆弾の製造を託した。

複数のメデイアの伝えるところによれば、タレクはアルジェリアの秘密情報局のエージェントだった可能性がある。アルジェリア軍の複数の将軍から命令を受けていた。将軍らは数年前からGIAを掌握していた。まず、真のイスラム教徒を排除し、ついで市民を殺害することにより民衆の(GIAに対する)信頼を失わせた。

1995年にフランスはアルジェリアの政権と距離を置いた。テロ行為はフランスの政治指導者への警告だった。

1995年7月15日 ケルカルと警察の間で初の銃撃戦があった。

7月25日17時30分 パリ郊外急行RERサンミシェル=ノートルダム駅で、ガスボンベにボルト・ナットを詰めた爆弾が炸裂し、死者8名、重軽傷者117名の犠牲を出した。

RER


1995年8月25日 リヨンの近くのTGV線路に仕掛けられた爆弾が見つかった。爆弾にケルカルとベンサイドの指紋が見つかり、捜査が急速に進捗した。

9月7日 ヴィルールバンヌのユダヤ人学校の校門近くで車に仕掛けられた爆弾が爆発した。二日後の捜査で爆弾にケルカルの指紋が見つかり、ケルカルが
係わったことが判明した。

9月15日 内務大臣ジャン・ルイ・ドブレは記者と昼食中に、アルジェリアの軍事諜報局がフランス警察の捜査を誤った方向に向けさせた、と秘密裏に明かした。この発言は直ちに否定されたが、フランス当局がこの爆弾テロの背後の指令者に関し、アルジェの政権への疑惑を抱いているとのメッセージとなって伝わった。

9月27-29日 リヨン郊外の山岳部で、キノコ狩りをしていた男が、山に不審な男がいると警察に届け出た。警察が山に捜査陣を入れ、ひとりの男が突然銃を発砲し逃げ出した。警察が男を追い、山中にケルカルが潜んでいるのを見つけ、ケルカルに加え二人の男と銃撃戦となった。ケルカルはアジトからルノー9に乗って逃走した。「メゾン・ブランシュ」と呼ばれている場所で、ケルカルは追い詰められ、EPIGN特殊部隊により射殺された。この時の状況はテレビで放映され、ケルカルは憲兵の傍におり、銃で憲兵を狙っていたが、憲兵の一人が「やっちまえ。殺せ!」と叫んだのが聞こえた。警官と違って憲兵は正当防衛の状況にない場合も武器の使用が許されている。

95年10月6日 ケルカルの埋葬の日。パリのメトロの駅メゾン・ブランシュの近くでナットを詰めたガスボンベが爆発。12人が軽傷を負った。ベンサイトの指紋がボンベに残されていた。翌日、GIAの首領ジャメル・ジトニ Djamel Zitouni が公式にジハード聖戦の声明を出した。