「日本はアジアの平和構築、国民和解、民主化への貢献を、私が主導する外交政策、岸田外交の新たな柱に据えます」
―-講演で岸田外相はこのように述べると共にロヒンギャなどに対し国際機関を通じて350万ドル、約4億3000万円の緊急支援を行うと表明した。
さらに戦後70年にあたって岸田外相は、「日本は自らの行為によりアジア諸国民に多大の苦しみを与えた」
「過去から決して目をそむけることなく、未来に向かって平和国家として努力していかなければならない」と強調した。
これは大変良い講演ではないかとめのおは思う。
「過去から決して目をそむけることなく」……、この時代のことなどできれば振り返りたくはないですが、熊楠さんがたいへん良いコメントを下すった成り行き上、やはり昭和のあの戦争のことを、ちょとだけ振り返ってみます。
日中戦争開始、昭和15(1940)年 GDP201,766Million$(2018億ドル)(注には1990年国際ドルとある)。一般会計586,021万円、軍事費769,349万円で
一般比135.9%
太平洋戦争終焉の昭和20(1945)年 GDP98,711Million$(987億ドル)。
一般会計2,149,619 万円(+266.8%)。軍事費 5,524,289 万円(552億円)。一般比257%
このGDP というのがよくわからんのです。1990年国際ドルとあるのは1$=100円で換算してよいとうことなのか?
そうとすると9兆8千700億円です。するとこの年の軍事費の対GDP比はわずか0.5% になります。
同じ年のUSAのGDPは? というと、1940年が9,308.3 億ドル、1944年が17,155.8 億ドル、1945年には
16,467 億ドルとなります。
1940年のGDPを比べると日本はUSAの 22%、1945年には、日本が987億ドルでUSAは16,467 億ドル、実に16.68倍。日本/USAのGDP比は6%ってことになります。
GDPとは一体何か? 経済学を勉強したことのないめのおには良く分かりません。漠然と、国力を示す指標に使われるようだ、くらいしかわかりません。
国力がこの数字で示されるものだったら、こんなにも力の差がある国に、真珠湾攻撃など奇襲作戦をやって、戦争に踏み切る決意をなんでまたやったのか? 無謀と言われても仕方がない。負けるのを承知で開戦に踏み切ったということでしょう。
真珠湾攻撃の山本五十六元帥は日米の国力の差を良く知っていて最後まで開戦に反対だった。それが「いっちょうまえ」の海軍軍人の気概を見せるために、「いざやるとなったら最初の一年くらいは暴れてみせます」と近衛首相に見栄を切ってみせた。はじめから負ける気だったのでしょう。
熊楠さんが教えてくださった対GDP軍事費のグラフにより、最近のUSAの軍事費が世界でダントツ、世界中を合計しても追いつかないくらい膨大なモノってことがよくわかりました。
でも、こういった数字だけを見ていては、1945年の日本の対GDP軍事費の割合が小さいから日本は軍国主義ではなかった、とか軍人に支配されていた満州事変から太平洋戦争にかけての日本の国際関係の特徴を見ることができると思いません。
めのおは軍事大国と軍国主義は違うと思う。軍国主義は政治的・社会学的用語だと思います。
軍国主義とは、「戦争は神聖な使命であり、人間の精神を高度にするものである。軍国主義は自己犠牲(滅私奉公)や忠誠を美徳とし、勇気や冒険をたたえ、体力の錬磨を唱道する。またシンボルや儀式を創出して、これらの価値の弘布宣伝に努める。軍国主義が支配する国家では常に軍人が最高の社会的地位を占め、教育、文化、イデオロギー、風俗習慣などが軍国的特徴を帯び、社会生活が軍事的に編成され、そのすみずみまでに軍隊の精神やモラルが浸透し、国家全体が兵営のような観を呈する」(ブリタニカ国際百科事典を参考にしました)
教育の分野では中学校以上に現役将校を配属して行った軍事教練、憲兵による社会思想の取り締まり(大逆事件などの社会主義者の大量検挙、大杉殺害、治安維持法などに現れた社会運動への弾圧)。
宇垣陸相は挙国一致をすすめるのに政党政治は相応しくない、と日記にこう記しています。
「平戦両時を通じて、真正なる挙国一致の如き7千万同胞をあげて至尊の下に馳せ参ぜしむべき采配を振るべき仕事はいかに考えうるも吾々陸軍が進んで任ぜねばならぬ。……学生、80余万の青少年に接触する陸軍にして始めてこの仕事をなしうべき適性が存在する」
80余万の青少年とあるのは、学校だけでなく青年訓練所を置き軍事教育が施され、在郷軍人会も改組され軍部の統制下に置かれ、地域分会、工場分会も作られました。
「無謀な」という言葉通りの、戦力の差、工業力の差、(つまり国力GDPの差)に対する冷静な観察と考察、判断もなく、中央の方針や統帥権をも無視して一握りの軍人が日本という国の行く末を左右する重大な作戦を決行してしまう、そういった思い上がりと傲慢に基づいた軍人の独断によって日本全体が引きずられてしまった、過去の10年間を不幸な時代だと思います。
具体的に、関東軍が満州で戦った「ノモンハン事件」を見てみましょうか。
日本軍の戦車200両。ソ連軍2200両。(日本はソ連の9%)
航空機日本560機対ソ連2500機。ソ連は4.46倍の戦力。
こうした戦力の差という現実を観もせず、関東軍は「満洲国で、ソ連と軍事同盟関係にあるモンゴル人民共和国と対峙しつつ、大陸で中国と闘い続ける」という明らかに戦術的な誤り、初歩的な誤りを冒しています。二正面作戦です。
第二次大戦末期のヨーロッパでもヒトラーはソ連赤軍と英米中心の連合軍と二正面作戦の愚を犯して破れました。ノモンハン事件を有利に進めるため、スターリンはヒトラーと不可侵条約を結び、これによってナチス・ドイツは安心してポーランドへ侵攻し、ソ連はモンゴルの日本軍と全力を挙げて戦争出来たのでした。
昭和14年4月25日、満州国の首都新京の関東軍司令部で、植田軍司令官は新たな関東軍の方針を麾下の将軍たちに示達しました。「満ソ国境紛争処理要綱」(関作命第1488号別冊)がそれで、この要綱の方針は辻正信参謀が建策し起案し、服部参謀が承認し作戦課が一致して強力に推進しました。
しかし、その内容は昭和8年の極秘「対ソ戦闘要綱」から一歩も出ていない、つまり6年間にソ連が進化している現実に一顧も与えない観念的思い込みを綴ったものでした。
「ソ人は概して頭脳粗雑、科学的思想発達せず、従って事物を精密に計画し、これを着実かつ組織的に遂行するの素性および能力十分ならず、また鈍重にして変通の才を欠くところ多し」
「兵力の多寡ならびに国境の如何に拘わらず必勝を期す」
関東軍参謀という日本陸軍のエリート中のエリートが、誠に杜撰な作戦ともいえない「勝とうと思えば勝てる」といったむちゃくちゃな精神主義で日本を奈落の底へ引きずり込んだのでした。
めのおは日本が軍国主義だった時代を過去に持ち、中国を侵略したと戦後70年を経た今日に至っても非難されるのは、ケロッグ・ブリアン協定(別名パリ不戦条約)の最初の署名国でありながら、満州事変、支那事変で策謀を使ったとの説もある武力行使により不戦協定を破り中国と泥沼の戦争にのめりこんでいったからだと思っています。
この協定にこそ現行日本国憲法の第9条に謳われたと同じ「国際紛争の解決に武力は使わない」文言が書かれていたからです。